鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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歴史的・文化的内容宋迪は五世代にわたる士大夫の家柄に生まれました。宋迪と彼の兄弟は1040年代に官界に入りました。それは,最高度の人間的価値を理解し,表明することにより,熱意と教養あるエリートが社会を改良することに信頼を寄せた時代でした。彼らは皇帝さえも従うべき儒教精神の究極的権威に対して信奉を抱いていました。宋代早期の歴代皇帝は,学者たちの意見を聞き,その諫言に耳を傾けるそうした姿勢を佳とし,学者たちは経書や儒学の適用の是非について真剣に討議しました。そうした討議の場の立役者は,北宋における最大の思想家の一人,司馬光(1019■86)でした。宋迪よりも二三歳年下であった司馬光は,三人の宋兄弟のよき友でもありました。光の下で務めていました。嘉祐年間(1056■63),宋迪は転運判官尚書都官員外郎と灌湘地方の心臓部である湖南運判に任命されました。1063年3月,灌水・湘水が合流する風光明媚な永州淡山巌を訪れています。宋迪は1067年まで長沙に留まりました。その年,先代から引き継いだ諸問題を解決する革新の熱意に燃える若い神宗(在位1068■85)が即位しました。当時,国家が直面していた諸問題とは,数ばかり増大した文官,不平等な税金,国の財政の危機などがあります。しかし,神宗がまず取り組んだ問題は,党項(タングート)族の西夏と契丹族の遼に奪われた失地の回復でした(『ケンブリッジ中国史」の神宗の章の著者ホ°ール・スミス博士の研究による)。司馬光やほかの者にとって衝撃となったのは,神宗が王安石に改革遂行を任せたことです。王安石は熙寧元年(1068/69)に皇帝に最初に謁見して以後,『周礼(しゅらい)』を読むことに基づき「万言の書」による大胆な意見を奏上し,古代の理想的な杜会秩序を近時に再現できると確約して皇帝の信頼を得ました。農法・経済の改革に関心をもつ王安石は,「新法」が貧困に苦しむ農民を救済するだけでなく,帝国の財政を満たすであろうことを約束しましたが,それは高い戦費による対外強硬策を行おうとする神宗の目算と合致しました。そうした目標を推奨する一方,王安石は,経済の素地が固まるまで軍事計画を延期することを神宗に説得しました。「新法」を施行推進するため,王安石は,朝廷や官界内の意見の一致が重要であると強く主張し,反対を唱える者を排除する処置を素早くとりました。王安石の反対者たちは,彼の身贔贋や,皇帝への偽りの進言,宰相の権限を奪ったことなどを非難し,1062年,宋迪は京兆府開封で三年毎の殿試の試験官を,その主幹である友人の司馬-515-

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