鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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1069年夏には反対者は彼を告訴する挙にでました。王安石を辞任させようという動き50歳の司馬光は,押しも押されもせぬ政治家であり,士大夫でありました。彼は新1074年6月,宋迪は郡州知府に任ぜられました。三ヵ月後,彼はさらに要職にのぼはかえって皇帝を彼の側に惹きつけ,王安石は改革の遂行と反対者の弾圧を続行しました。法反対の指導的な論客となりました。神宗は司馬光の高邁な姿勢を評価しながらも,王安石の進言にのみ耳を傾け,その結果,司馬光は煕寧4年(1071)罷免され,閑職をもって洛陽に引退しました。同年半ばまでに司馬光は十七件の検閲と四件の政治問題と三件の宣誓書の草稿を無事に終えました。王安石の改革の早期の段階で宋迪は京師におけるいくつかの官職に就きました。彼は司封郎中と三司門監塩鉄司に任命されています。熙寧7年(1074)春,人々は新法反対に立ち上がりました。開封の政商たちは増税や値上げに憤慨し,国が彼らの商活動を阻害していると非難しました。彼らの抗議は北シナで猛威をふるった旱魃から首都に逃れて来た千万の難民の間に広がりました。旱魃は天に背いた罰として下された災異であると説明され,神宗は非難の的となりました。洛陽では司馬光が皇帝の詔勅を受ける時に悌涙したことで反対者の攻撃を受けました。1074年,王安石は罷免を余儀なくされましたが,不幸なことに朝廷をとり巻く情況は一向に改善されません。王安石は息のかかった後継者たちを通じて依然政治に影響を及ぼし続け,王安石の秀でた個性がなかったならば,政治論議は権力と出世をめぐる紛争へと陥っていたでしょう。り,およそ今日の挟西省と甘扁省全体をカバーする制置永興秦鳳路交子法に昇任しました。ところが就任もしないうちに彼の官歴は灰儘に帰してしまいます。宮城に起きた五ヵ日間の火災は千余楢(えい)の建物を焼き尽くし,莫大な量の公文書と資料が燃え去りました。火災はかつて宋迪が火元取締りをしていた塩鉄司の建物にあった無人の鼈から出火したといわれます。宋迪は塩鉄司を3ヵ月前に辞任していたにもかかわらず,この惨事の責任をとり,不名誉のうちに官を退きました。洛陽追放職を失った多くの官僚がそうであったように,宋迪は新法反対の中心となりつつあった洛陽に隠棲しました。司馬光のような場合の高官には仏寺の長として恩給が与えられましたが,宋迪の場合はなんら財政的保証はなく洛陽に移されました。つぎの司馬光の詩から,彼が宋迪に小さな土地を買って暖かく迎え入れ,宮廷生活-516-

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