鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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での苦悩を一日も早く忘れるように薦めている様子がわかります弱冠交遊髪髪蒼弱冠交遊するに髪髪(ひんぱつ)蒼<飽誼官況好深蔵諦官(あんかん)況(ま)して閑居共買一堀地閑居して共に買う一堰(てん)の地需老常依敷初謄盛(まま)よ老うれば常に雖喜卜郡同晏子ト郡(ぼくりん)を喜ぶと雖(いえど)も尚態推宅異周郎尚お暫(は)ず何時税此憑熊駕何時ぞ此(これ)を税(おさ)め椅杖相迎立路傍杖に椅り相迎えんと路傍に立つ司馬光は宋迪を春秋時代の大政治家晏嬰(あんえい)と比べて彼の官僚としての高潔さを称賛し,三司の火災に関して彼が無実であることを暗に言おうとしています。司馬光はみずから責任ありと認め,自分が赤壁の戦いで曹操の軍を破った将軍周郎(周喩)のようではないことを恥じています。かりに司馬光が強敵の王安石を周喩が曹操を破ったように打ち破ることができたならば,悲劇はもはや存続せず,宋迪のような才能ある人物も不運に陥らずに済んだかも知れません。王安石を容赦仮借ない軍人の曹操にたとえたことは,官歴と名誉とを経験した人々にとっては極論ではなかったでしょう。洛陽に集まった士大夫たちは自分たちを閑居者と呼んでいました。彼らには官吏としての責任はなんらなく,歴史や文学への関心に費やす多くの時間がありました。司馬光は彼の記念碑的な大著『資治通鑑』を完成させました。それは帝王と官僚がとるべき責任態度に対する歴史上の先例を示す典籍として使われました。彼らの中には唐代の大詩人杜甫を研究する者もいましたが,杜詩の中には滴湘八景の成立に関するものがあると私は信じます。しかし,彼らが詩会や雅集をもったにせよ,マイケル・フリーマン博士がいうように,「いささかの楽しみの底に抗しがたい暗鬱な気分」がありました。彼らの関心は政治への影響力を取り戻すことでした。深蔵せられるるに飽く敷切(じん)の騰(しょう)に依らん晏子(あんし)と同じく宅を推すは周郎と異なるを熊駕(しゅうが)に憑(よ)らん-517-

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