鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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年に神宗は王安石を宰相に再任しましたか,1076年には永久に罷免しました。洛陽の閑居者たちは祝い合いました。新しい宰相は司馬光をはじめ旧法党のメンバーを呼び戻しましたが,彼らを待っていたのは苦い失望でした。神宗は政治機構を直接にコントロールして新法を続行し,逆に翰林院の役割を減らしました。神宗が親政を執ったことで,新法に対する反対は一層複雑なものとなりました。王安石という標的がいないために,批判は皇帝に向けざるを得なくなります。このことは現実には士大夫の諫言する任務が大逆罪に近いものに変わって行くことです。王安石の空席を填めるために,野心ばかり大きくて自省に欠ける年若い祭確(1037■93)か任用されました。條確には王安石のような政務の経験がない代わりに,邪悪さの点ではまさっていました。神宗とこの新しい宰相との間で,批判勢力に対する寛容性は急速に失われて行きました。を指弾する)」と書いたことが皇帝に対して不敬の意を示したとして裁判にかけられ,死刑の判決が下されました。四ヵ月の裁判を通じ,治安攪乱の事実が確認され,蘇拭も何篇かの詩が批判の意図があったことを告白しました。さほど著名でない官僚ならば,刑罰は打首であったかも知れません。しかし,蘇拭の場合,皇帝の恩赦(加えて皇太后の口添え)があって,比較的軽い二年間の杭州への流諦の刑が与えられました。蘇軟の裁判と断罪とによって,言論の道を開き,皇帝に諫言する動きは下火になりました。1079年以降,朝廷における姦臣を批判することさえ大変な警戒を要するようになり,地方では恐ろしい情況となりました。こうした雰囲気の中での作画活動のひとつの長所は,断罪の心配がほとんどなしに,強烈なメッセージを伝えることができる点にありました。詩と画宋迪を論ずる時,即座に十一世紀における詩と絵画がどんな関係にあったかという問題に直面します。十一世紀という時代は,絵画の表現用語に詩を引き合いにすることが盛んに行なわれました。絵画は「無声詩」であり,「無語詩」であり,「無語句」でありました。現在最もよく知られているのは,唐代の詩人画家王維(699■756)について蘇拭が言った,「摩詰(王維)の詩を味うに,詩中に画あり。摩詰の画を観るに,画中に詩あり」という言葉でしょう。詩は単に個人的な楽しみではなかったことを思い起こす必要があります。久しい間,1076年,洛陽の閑居者たちにとって宮廷に復帰するための好材料ができました。10751079年夏,士大夫官僚の大物蘇拭(1037■1101)は詩句に「指斥乗輿(皇帝の輿車-518-

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