ことは灌湘が僻地であるという点でした。都から離れていることは,皇帝から遠ざかり,朝廷内部のサークルからも疎外されていることを意味しています。時には風景の美しさが詠われています。この点,李白や柳宗元が最も熱心でしたが,柳宗元の目にも山や川は帰途への障害と映じました。彼はそうした素晴らしい景色が,そのような野蛮な土地に存在していることの皮肉を面白がり,山水が「不遇のうちにこの地に送られた善人を慰める」という思いを皮肉をこめて述べています。韓愈は,灌湘地方であればこそ彼の時代を生きられたことをひたすらに喜び,「蛮族の未開地に流鏑されて隠棲すれば,生を保ち全うせん」と詠じています。もし詩に灌湘八景の典拠があるならば,その絵画は単に美しい山水ではなく,流鏑を詠ったもののはずです。そうした詩人の中で,杜甫は灌湘八景の最も重要な典拠となっています。765年,杜甫か菱州(きしゅう,四川省奉節県)に移り,古代の楚国の地方に移りました。彼は余生を楚の地で過ごそうと,最晩年の二年間を洞庭湖と湘水で送りました。北宋の士大夫たちは杜甫の内に儒者の高潔さと仁愛の典型を見出しました。道学の盛んな時代でしたから,杜甫の詩は派閥を超えて訴えるものがありました。欧陽修も,司馬光も,王安石も,蘇拭も,黄庭堅(1045■1105)も,同様に杜甫を称賛しています。十一世紀においては杜甫は単なる天才詩人だけでなく,「詩聖」であり,「詩史」でありました。蘇試の次の文章は他の多くの人々と同じ調子でありますが,最もしばしば引用される賛辞です「古今詩人衆芙,而杜子美為首。登非以其流落餓寒,終身不用,而一飯未嘗忘君也歎(古今,詩人は衆(おお)かれど,杜子美を首と為(な)す。登(あに)其の流落(りゅうらく)を以てせば俄寒(きかん)非ず。終身用いざれば,一飯たりと未だ嘗て君を忘らざる也)」失意と零落とにもかかわらず,忠誠と仁愛をもち続けたというのが,十一世紀における杜甫に対する中心的な見方でした。杜詩の中に儒者の高潔な精神を見出した北宋の士大夫はその熱烈な信奉者でした。彼らはこの詩人を細心な研究の対象としました。黄庭堅は壮大な廟堂を建てて杜甫が生涯の最後に書いた何篇かの詩を碑に刻む計画を公言しました。その中には杜甫が楚の地方や灌湘で書いた詩がありました。その中には宋迪が八景の題画詩として最初の対句にあげている落雁と帰帆が含まれており,北宋の士大夫にはそれが流鏑と帰任であることが簡単に読み取れました。-520-
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