鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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植烏終歳飛植烏(しょうう)終歳飛ぶ鹿門自此往鹿門は此(ここ)より往き永息漢陰機永らく息(いこ)う漢陰の機この詩の中に宋迪の「遠浦帆帰」の四字はすべてありますが,しかしバラバラになっています。杜甫のく鯨雁二首>と比較すると,詩の語句は楽観的で希音!に満ちています。事実,のちの絵画では,灌湘八景中のこの画題は昇進が早いことの吉祥のイメージに変わっています。杜甫は,年月が経っても出仕は可能であると言い続けています。「遠浦帆蹄」の画題は,忠誠な士人の出仕の希望と,彼の学識と専門知識が正当に認められて朝廷に復帰できることの願望を表明しているようです。宋迪にとっては,朝廷に戻り,風評を晴らし,名誉を回復したいという遠大な目標がありました。山市晴嵐八景の全部を論ずるには時間が足りませんが,もうひとつの画題,「山市晴嵐」について話さずに済ます訳には行きません。十一世紀の詩に通じた士大夫にとって,すでに述べたはじめのふたつの画題の意味は容易に理解することができました。しかし,三番目の画題については,ある特定の典拠を引き合いにすることによってのみ理解できます。落雁や帰帆のアイディアと異なり,山市晴嵐にはハッキリした文学的な先例がある訳ではありません。早期の中国の古典の中で,「市」の語はほとんど使われていません。1070年代,「市」は新法の論議の焦点でした。宋迪は,杜甫のく秋日菱府詠懐>から影響を受けたものと私は信じます。この百韻の長い詩には山市について見逃せない記述があります。この詩を贈った「鄭監李賓客」という友人に,当地の特産品について,杜甫は「紫は眠嶺(みんれい)の芋に収め,白は陸家の蓮を種(う)うる。色好き梨は頬に勝(まさ)り,穣多(じょうた)なる栗は拳に過ぎ,厨房に勅するただ一味,飽を求む或いは三蜆(てん,うなぎ)」と詠っています。宋迪の画題の残りの二字「晴嵐」ですが,<秋日菱府詠懐>はこの語についても触れています。詩の第一節に見える山を掩う厚い雲はやがて秋風により散らされます。隠れていた山が現れるだけでなく,詩人の心も晴れて来ます。宋迪の灌湘八景の画題,山詩晴嵐は,江天暮雪と対になっており,それによって日中の山市と夕方の江天とがセットになっている訳です。杜甫のく秋日焚府詠懐>は朝の情景を詠っています。詩人は鳥の鳴き声で目を覚まし,大急ぎで髪を整えます。朝の時間はふたつの画題に理想的なバランスを作り出しています。<秋日蔓府詠l衷>における市と山水の描写は精細であるため,のちの論者は,「句々,-524-

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