鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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人目市井泊船慮曰市璧(峡人は市井の船の泊る処を目し,市賢と曰う)」と述べており,多くの作品では小さな船着場が描かれています。杜甫はまた「i襄(じょう)」の語について,「江水横通山谷慮,方人謂之i襄(江水の横通せる山谷の処,方人は之をi襄と謂う)」と説明しています。灌湘の八景画家たちが杜甫の詩によっているならば,小さな川が大きな江水にそそぎ込んでいなければなりません。(王洪画にはそうした川があります)。玉澗の煙霞に包まれた山水では,橋によって川が示唆されています。杜甫の詩句では,山市は川の西の岸辺にあります。画家が川の北側に立って南面していることを念頭におくと,i襄西の市は画中では右手の丘になければなりません。十二三世紀のほとんどすべての作品が,意識的か,習慣的か,あるいは偶然に,この背景のセットの位置づけをしています。結論宋迪にとって,1070年代後半は沈鬱な時代でした。友人の司馬光は時勢を変える力はなく,名誉を回復せぬまま他界しました。こうした要因のすべては,宋迪の画題が単に煙霞を扱ったもの以上のものがあったことを暗示しています。文献から知るところでは,灌湘八景は詩がもつ教訓的ないし政治的な機能を借りています。こうした解釈において,絵画は歴史を説明し,時勢を批判し,内奥の苦悩を吐露するものでした。したことになっています。この想定は明代の地方誌が嘉祐年間(1056■63)に長沙に八景台が作られたとあるのによっています。しかし,蘇試や沈括の書いたものを含む北宋の文献には宋迪の長沙赴任と画題とを結びつけるものはありません。八景の個々の画題を注意深く見ると,1070年代に起きた政治事件と左遷による窮状と対応していることがわかります。山水画としては確かに灌湘地方の景色を思わせるものがありますが,しかし,これらの画題は1074年に宋迪が朝廷を放逐されて後,おそらく70年代末に作られたようです。灌湘八景はいち早く人気を呼び,そうした人気に応えて八景台が作られました。灌湘八景は政治的・社会的環境が変わってのちも描かれ続けました。灌湘八景のおもしろい現象は,時代を越えて示唆に富む画題としてさまざまな解釈がなされて来たことですが,しかし,それは別の問題です。灌湘八景と陳用志・郭熙沈括「夢渓筆談』巻17書画は,「度使員外郎の宋迪が画にエ(たく)みで平遠山水を今Hの知識では,宋迪は1060年代はじめに長沙に赴任している間に灌湘八景を創造新藤武弘-526-

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