1070年代にかりに生きていたとすれば80歳近かったはずで,年齢差を最小に見積もっ(1) 郭煕は神宗朝(1067■85)の始めに宮廷に昇り,皇帝の寵遇を得て,官街や宮殿善くし,灌湘八景の画題を考案し,好事者これを伝えた」という記述に続いて次のことを言っている一小密村の陳用志は画に天趣が少ないので,宋迪は「敗増張素」と呼ぶ技法を彼に教えた。これは崩れた壁の上に白絹を貼って朝夕眺めていると,悦然と高平曲折が現れ,それを山水や谷間に見立てて人禽草木を加えると神意にかなった山水が描ける,と言うものである。壊れた壁に偶然に現れる凹凸を山水の明暗表現に利用する「敗埴張素」の技法は,灌湘八景の成立と同じ文脈に述べられており,煙霞に包まれた灌湘の風景の表現として最適であるとの意が言外にある。問題は,陳用志(別本では陳用之)と宋迪の活躍期に半世紀近い隔たりがあることである。陳用志は許州郡城(河南省)の人で,山水にすぐれ,また蕃馬を胡環に学んだ。仁宗朝の天聖年間(1023■31)の図画院の祗候にのぼり,景祐年間(1034■38)に仁宗が営んだ慈孝寺の筆東殿で御前で制作をした。また人々は彼の画を求めたが半幅の紙絹さえ手に入らなかった。『聖朝名画評』(1059年頃,劉道醇撰)は祥原観東壁の千里の景が傑作であったが,慶暦年間(1041■48)に焼失したことを記録する。要するに,陳用志は1020年代から30年代に活躍しており,宋迪が洛陽に蟄居させられたても,50歳代の宋迪が,80歳近い陳用志に画事を教えたというのはいささか奇妙である。「敗培張素」の陳用志への伝授はあるいは宋迪の長沙赴任前のことだったのか。とすれば,それは灌湘八景とは無関係であった。あるいは『夢渓筆談』の記述に誤りがあるのだろうか。ちなみに,沈括が1070年頃に作った有名なく図画歌>は陳用志に触れていない。灌湘八景は宋迪のアイディアであることはもちろん疑いないが,その最初の描き手となった画家は誰か。それは郭煕ではないだろうかと筆者は密かに考えているが,それには次の理由があるの壁画を制作した。彼が李成風を継ぐ最大の画家と認められるのは三司門監塩鉄副使の呉充の引きがあったためといわれる。呉充は欧陽修とも王安石とも姻戚関係にあり,英宗・神宗の愛顧を得て宰相まで昇るが,夫人が李成の孫女であったので,宮中の画事に携わったらしい。神宗朝の初年,宋迪は湖南運判の任を解かれて注京にもどり,その後,王安石の下で塩鉄使を務めたのであるから,当然,郭熙を知っ-527-
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