鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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ていたはずである。(2) 「敗壕張素」は南宋の部椿が『画継』巻9論遠にいう,郭煕が唐代の楊恵之の山水浮彫からヒントを得て始めた「影壁」の技法と似ており,部椿は,それを「張素敗壁」の余意であろうと述べている。(3) 灌湘八景の根底にある詩画一致について,郭煕の『林泉高致集』画意に,前人の言の「詩是無形画,画是有形詩」を哲人は多く談じており,吾人も師とするところである,と言っている。郭煕のこの謙虚な言葉にいう前人や哲人とは誰か。『林泉高致集』の腹案が1070年代にできていたとすれば,前人や哲人の中に宋迪が含まれているはずである。(4) 職人的描き手であった郭煕は,画題の底にある詩意を理解できなかっただろう。しかし,『林泉高致集』は,朝夕や季節による大気の変化を繰返し述べており,彼の関心はそうした問題にあった。また,画訣と画格拾遺の条にそれを画題とした四字成句の題名か多数記載される。その中には,「平沙落雁」「水村漁舎」「遠水晩照」「雪渓平遠」など,灌湘八景に含まれる画題,内容が近い画題が含まれる。(5) それにもかかわらず,郭熙が無視されたのはなぜか。郭煕が無学な職人画家であったことは,<早春図>のカナクギ流の落款や,また,『林泉高致集』が息子の郭思の編著によっている点からも知ることができる。かような無教養さは,文雅の精神を担うエリート士大夫には嫌われた。とくに旧法党には学問や詩書画にすぐれた士大夫が大勢いたが,郭熙が神宗をはじめ新法を強行する宮廷勢力の愛顧を受けたことも彼にマイナスとなった。その後,米苦などは,登院のたびに嫌でも郭熙画か眼に入ったはずなのに,彼の著「画史』には郭熙の名さえ見えない。宋迪もまた同じ理由で郭煕を称揚することを憚ったのであろう。ただ沈括だけは,彼のく図画歌>に,郭熙について「(高)克明すでに往き,(許)道寧逝き,郭煕は遂に得たり新来の名」と詠っている。-528-

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