みやびうちわえたのは,天保年間(1830-44)以降のことである。その中心的な存在は,同じく新たな分野として定着した風景画におけると同様,北斎と広重であった。北斎と広重は,たがいの作風の違いを深く意識していたようで,広重は絵本『富士見百図』の序文の中で次のようなことを言っている。すなわち,北斎は「絵組のおもしろさ」をもっばら狙って対象のとらえ方や構成に奇巧を求めがちなのに対して,自分(広重)の方は,「図取は全く写真」による,写実的あるいは自然に忠実に描こうとしているというのである。これを実際の花鳥版画に照らし合わせてみると,意外なことに広重の花や鳥が写生によることは少なく,一定の型に従ってコンベンショナルな姿に表され,かえって北斎画の方が現実の花や鳥に忠実に描かれているのである。また,広重の花鳥版画には俳句や漢詩の賛がともない,分かりやすく親しみやすい詩とともに花鳥画を鑑賞させようとする当時流行の文人趣味が濃厚である。とくに季節の詩感を強調する点で,上方の四条派や江戸の琳派と性格を通わせている。浮世絵が本米足場を置いてきた通俗性から離れ,雅の文化へと上昇,同化していこうとする姿勢が濃厚なのである。それに対して北斎は,花や鳥の造形的な組み合わせに重点を置いて,文学性や雅な洗練への接近をあえてこばむ姿勢を明らかにしている。つまり,「絵組のおもしろさ」に徹することによって,北斎ならではの,また浮世絵版画独自の,新しい花鳥画表現を開拓しようとしたのであった。ことに団扇絵という横楕円形の特殊な判式を採用した諸作の,力強い造形性は,高く評価されてよいと思われる。-553-
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