鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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3人の発表のあと,ヘンリー・スミス氏がコメントをおこなった。すなわち(1)このすなわち,ェクスセン氏は,幕末における外国人を描いた画像の情報源の調査を行い,特に,長崎絵がペリー来航時の瓦版にも無批判に使用されていったことを報告した。また,瓦版などの需要と供給の問題に言及することは,いかに多くの庶民が世界情報にアクセスしたのか理解するうえで重要であるかを指摘した。さらに,庶民が見た情報を庶民自身がどのように理解していったのかは,幕府の外交関係の事実の推移と照らして考えていかなくてはならないことも提案した。岩下は,歌川国芳作の「きたいな名医難病療治」を素材として,ペリー来航前夜の江戸の庶民が,「きたいな名医難病療治」から,どのような政治的情報を読み取ったのか,またその情報をどのように使ったのかを報告した。特に比較的支配者階級に近い層である蘭学者坪井信良の書簡と庶民に近い層の情報を収集した藤岡屋由蔵の「藤岡屋日記」を用いて,当時「きたいな名医難病療治」がどのように読み解かれていたのかを詳細に述べた。そして,「藤岡屋日記」の読み方が,庶民の政治権力者に対するイメージに近く,こうした傾向で,坪井信良の書簡に記されている人物比定を見ていくと,「きたいな名医難病療治」は,当時の大奥の老女姉小路局を中心とした江戸幕府の権力地図を描いたものであり,庶民に政治的情報を提供するものであったこと,またこの絵には,庶民の権力者に対するイメージが投影されていることを指摘した。スティール氏は,岩下と同様に庶民の政治的情報という視点から,1860年の攘夷論の商揚がかなり大きく取り上げられているのは何故かを問いなおし,それを横浜絵や瓦版・双六などの画像史料から説明した。そして横浜絵にみられる外国人に対する姿勢と横浜絵の商業的成功は,外国人排斥を要求する幕末の志士たちが持っていた外国人恐怖症と共通するものがあったことを指摘した。パネルは,これまで用いられていた支配者階級の史料ではなく,庶民に受容された史料を用いることで,これまでと異なる,新しい幕末日本研究であること,(2)これらの研究は,日本においては,東京大学教授宮地正人氏を中心としたメンバーが行っており,岩下の報告はその流れを受けていること,などをコメントした。さらにスミス氏からは,坪井信良の書簡や「藤岡屋日記」の補足説明があった。以上の発表時間は一人20分程度であった。このあと,質疑応答に入った。質問は,多岐にわたり,そのすべてを書けないが,「藤岡屋日記」はどのようにしたら入手できるかや値段などを尋ねる簡単な質問から,なぜペリーが中国人風に描かれたのかとい-560-

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