自已の持ち前を発揮する次第である。河野・嶋屋の両氏による須恵器や高麗茶碗の研究が明らかにしたように,古代から大陸・半島の影響の下で,わが国の陶芸文化は,自己を形成してきたのであるか,その一貫性を決して固定的に捉えてはならない,ということがわかった。例えば今ではすっかり日本的趣味として我々の感受性に馴染んでいるかに見えるものも,かつては文化的異分子であったことを認知しえる。感受性や趣味もまた歴史的所産であることを,知見として広く陶磁器の研究会の参加者として共有できた。また陶磁器との関連では,陶磁器を鑑賞する際に,見るという契機だけでなく,実際に使用することとの関連で手にとって見ること,換言すればく触れる〉ことの重要性が指摘された。実際,我々は,坂高麗左衛門氏宅で十三代に渡る作品を鑑賞する際,手にとって作品を賞玩した。もとより,これは特例であるが,そのことを承知しつつも,やはりたしかに独自の評価意識が歴史的に培われてきている。例えば研究発表の一つ「無釉陶器の美」(河野石根)では,「信楽焼や備前焼などの無釉陶器,朝鮮半島から渡来した須恵器が,数百年にわたる歴史の流れの中で,日本化したものと考えられる。施釉陶器や磁器と並んでこのような無釉陶器が作り続けられ今日に至ったことは,これに対する日本人の並々ならぬ愛着を物語るものに他ならない。(中略)現代人の好みにも充分適合する無釉陶器の魅力は,どのような点にあるのか。」として,河野氏は①土味②歪み③窯変の3要素を挙げて,須恵器の定着・変容の過程とその評価意識の形成を巡って考察を加えた。それは形や素材や触感ばかりではなく,創造原理そのものを何処に求めるか,という究極的問題に連なる。あっさり言えば,芸術形成や美的判断に関し,世界を創造した超越的人格を根拠とするか或いは根源的自然を基とするかという芸術意思の違いが確認された。言うまでもなく,東アジアは後者を範型とする文化伝統にオ卓差している。またその綜合的評価は,形の面白味や土の触味等もさることながら,結局品位として了解されており,その了解の背後にあるものは,人間的な了解の芸術作品への類比的適用である。それは直ちに芸術の人間化ではない。作品生成の際に窯変を齋す言わば自然宗教的契機が評価の根底にあるのである。この点,再び,全体として新しいものに向かう創造的契機を個人の人格に求めることよりも,その新しさを常にく自然〉と結び付け,自我の解消の方向で了解しようとする強固な伝統的な意見の表明にも接した。おおまかな言いようになるか,西洋の近代主義の背後にある人間観に基づく創造性を中心として作品に美的契機を求めるという考えに対し,陶芸作品では,寧ろ,生活の必要か-564-
元のページ ../index.html#576