II 異文化交流の現代的形態の自覚ら作品に美的契機が求められていることが,既に指摘されていることではあるが,今回も確認されたことの意義は大きい。それはまた名人や名工を評価する伝統と関連してくる。そこでは,生活の必要という実践的機能と結びついた技術的契機が重視されるばかりではなく,技術の習得に際しての「年功」を尊重するという社会一般の気風も絡んでいよう。ことは社会機構や組織論や倫理観と絡み,また「近代化」の問題と関連してこよう。わが国に於ける美術館は,西欧近代を移入した所産であるが,西欧の文物の展示場所として機能してきた。この問題は文化交流というより,近代化の手本・文明の目標として日本が西欧の文物・制度を移入してきたことと密接に関わる。とりわけ,大都市の美術館にあっては。この点,山口という地方の県立美術館で,郷土作家の作品の展示という形で陶芸に接したことは,却って西欧のジャンルや様式史的展開とは別な形で切り取られた文化所産に対する視線を意識させた。我々が普段いかなる状況の下に仕事し,またいかなる視線を相手に仕事をしているか,その歪みをも浮かびあがらせて,一般市民の眼差しとのズレを意識せざるをえなかった。一般市民が遅れているという感想ではなく,学者や研究者と言われる人々が,その立脚する地平に希薄な関心しか抱いていないことや場合によっては自己忘却の上に研究が開花していることをいう。これは研究者が袢益されたというより,自ら戒めとすべきことがらであろう。この度の人間同士の交流は,単に作品の移入・紹介という物による文化の交流とは異なる。高度に発達した交通のお陰でもあるが,その結果,現代杜会が多元的な文化に人を通して晒されていることが改めて実感された。その多元的文化時代における自国・自民族中心主義について,美術制作の現場で現代韓国美術と交流する田谷氏の報告は,次のような自覚を高めた。即ち,東アジアの芸術の伝統や作品の正当性は,決してポリティカルコレクト的に主張されるべきではない。そうではなく,文化の多元性や歴史記述の視点の偏りを承知しつつも,作品そのものの有つ力や作品観や伝統的な価値基準やそれらの背後にある人間観や世界観に関する息の長い研究とその情報の蓄積・交流そしてまた人々の直接的触れ合いが大いに重要である,と。この点,最後に金香美氏の発表「韓国の近代教育創始期における美術教育について」に-565-
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