鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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1989年)(注)た論考は武田恒夫氏の所論であろう。武田氏は参詣曼荼羅の起源について宮曼荼羅と社寺縁起絵の二者を想定され,宮曼荼羅については参詣曼荼羅中に本地仏を描くもの(富士参詣曼荼羅)があることをその理由とし,社寺縁起絵については,参詣曼荼羅には神社系ばかりでなくもちろん寺院系のものも存在すること,両者ともに絵解きに用いられたこと,社寺縁起絵の中には杜寺の境内の景観を描くものがあること,の三点を理由に挙げられた。参詣曼荼羅の起源として宮曼荼羅と杜寺縁起絵の二者を想定するこの武田氏の見解は,以後の多くの論者に基本的に受け継がれていく。例えば中村興二氏もそうした立場をとっているが,氏は宮曼荼羅から参詣曼荼羅への移行に際しては「一定の方向をもった奥行きの表現を,左右への広がりを変え」る必要があったと,造形的側面からの考察を加えられた。参詣曼荼羅の源流として宮曼荼羅を重視されるのが,鈴木昭英氏や岩鼻通明氏である。鈴木氏は特に熊野(那智)参詣曼荼羅について,宮曼荼羅(熊野曼荼羅)中の参詣風俗の部分を拡大描写したものであり,その発展であるとされた。岩鼻氏は初期的な参詣曼荼羅である富士参詣曼荼羅や松尾寺参詣曼荼羅などは,人物の比重が少なく画面も縦長であることから宮曼荼羅の影響を強く受けているとされ,掛幅の社寺縁起絵の遺品が九州に多く残るのに対し,参詣曼荼羅のそれが幾内を中心に残ることなどを根拠として,社寺縁起絵の影響については否定的な見解を述べられている。これに対し,藤沢隆子氏は社寺縁起絵の影響を重視される立場であり,「参詣曼荼羅の要件である縁起説話の描き込み,参詣風俗の描き込み,絵師や作風の地方化庶民化」という三点が,いずれもすでに鎌倉時代の社寺縁起絵に見られることを指摘されているが,この第三点は素朴な様式の考察にも関連する視点である。先述の武田氏の論文は,京都国立博物館で開催された「古絵図」の展覧会に際して執筆されたものである。論文中では古絵図についての言及はほとんどなされなかったが,その後西山克氏が,宮曼荼羅や社寺縁起絵の影響を認めつつも,参詣曼荼羅は「聖域のある種の案内図として成立」したことを論じられた。下坂守氏は近年この見解を(1)「稚拙美の世界一御伽草子絵の流れ」(『図説H本の古典13御伽草子』集英社(2)参詣曼荼羅に関する従来の主要な論考を整理しておく。まず,最初のまとまっ-50-

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