鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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植田はすでにこのモチーフに関わる音響性の問題を先取りしている。れ,先入観に基づく作品紹介が行われる場合も多かった。それに比してこの画家の芸術論を歴史的視野でとらえた園頼三や,不完全な図版を頼りに緻密な作品観察の上に論を展開した植田壽蔵の論稿は,より客観的な視点に立つ紹介であった。関する文献の数が急増し始める。代表的なものとしては,渡辺吉治「近代美術の帰趨如何」(『中央美術』1922年4月),勝原雅大「カンディンスキーとペッヒシュタイン」(『中央美術』1922年7月),佐久間政一『表現派の芸術』,森口多里『近代美術十二講』,中井宗太郎『近代芸術概論』(以上1922年),北村喜八「表現派絵画の四傾向」(『中央美術』1923年3月),田辺泰『近代美術の思想と作品』,ー氏義良『立体派・未来派・表現派』,ー氏義良『近代芸術十六講』(以上1924年)等が挙げられる。その多くに共通するのは,印象派以後のヨーロッパ近代美術の流れが客観主毅から主観主義への展開と捉えられ,その極端な傾向として表現派が位置づけられ,カンディンスキーの作品や芸術論がその端的な例とされていることである。そして,おおむねその作品は色彩と形態による音楽的絵画とされている。こうした論調は,それらの文献の多くがヘルマン・バールの『表現主義』など共通の種本を持っていたことから生じている。これに対して独自の視点からカンディンスキーの芸術や芸術論を徹底的に紹介し,ュニークなカンディンスキー論を展開したのが村山知義である。ミット=ヴァルラーシュタイン画廊で開かれていたカンディンスキーの個展を訪れ大きな衝撃を受けた。そして影響を受けた作品を10点はど描くが,それらは後に塗りつぶされたという。この時の出品作はいずれも画家のバウハウス時代のもので,ミュンヘン時代の作風とは対照的に幾何学的形態による構成主義的な作品であった。その後,村山自身の個展を開いたトワルディー画廊の女主にヴァイマルのバウハウス訪問を誘われるが,カンディンスキーに対して急速に興味を失っていた村山はその約束を反故にしてしまう(アルス美術叢書『カンディンスキー』)。しかし,その一方で村山は留学中はもとより帰国後もカンディンスキーの紹介者と1910年代前半のカンディンスキー紹介では,往々その芸術論の急進的側面が強調さ1920年代1920年代に入ると,表現主義あるいは表現主義を含む印象派以降の西欧近代美術に1922年1月から翌年1月にかけてドイツに留学した村山は,ベルリンのゴルトシュ-56-

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