鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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して精力的に活動を展開する。1922年の「萬国美術展覧会の新運動」(『解放』4巻11号),翌23年の「過ぎゆく表現派」(『中央美術』91号),24年の「構成派批判」(『みづゑ』233号)と『現在の芸術と未来の芸術』,そして25年の『カンディンスキー』など矢継ぎ早の執筆を通じて『クレンゲ』,『芸術における精神的なもの』,『回想』等カンディンスキーのミュンヘン時代の主要な著作が翻訳や要約で紹介されている。これらは単なる紹介ではなく,ドイツで表現派,未来派,構成派,ダダといった前衛的運動を直に体験し,帰国後は自ら意識的構成主義を提唱していた村山が,カンディンスキーに代表される表現派をすでに克服された存在として論じた著作が多く,カンディンスキーの作品や芸術論も痛烈な批判の対象となっている。例えば,カンディンスキーの詩は「他の表現派の詩と異なり,詩が感情そのものである度が比較的弱く,寧ろ詩は感清の表出の媒介物の役をつとめてゐるに過ぎない」とされ,舞台作品「黄色い響き」は上演不可能で,その舞台作品論の根幹をなす「内的必然性の説」は「形成芸術の表現並びに伝達に関する素朴的楽天観」であるとした(『現在の芸術と未来の芸術』)。絵画については「カンディンスキーは『絵画』の二つの要素,色と形を何物かの手段としてではなく,色自身,形自身として感じたのみでなく,それをカンバスの上に表現した最初の人」としながらも(『カンディンスキー』),芸術作品としての価値については「カンディンスキーに於て存在価値のあるものは,その色と形ではなく,その『対象的なるものの放逐の原理』である」と否定的である。さらにはカンディンスキーの詩に詠われたイメージとミュンヘン時代の絵画を比較,絵画に見られる具象的モチーフの残滓を指摘し,作品観察を怠ったまま作品を論じている論者を痛烈に批判している。村山の論議にはいささか性急な部分も見られるが,作品観察を欠いた単なる海外の美術書の受け売りに過ぎなかった紹介記事とは一線を画している点で十分に批評と呼び得るものであった。村山はまた,カンディンスキーの実作品を紹介する上でも重要な役割を果たした。帰国後の村山と画家永野芳光が将来した作品による「最近露独表現派展覧会」がそれで,画廊の流逸荘を会場に1923年7月2-14日の間開かれた。またドイツから到着の遅れた作品を加えて7月15日から30日まで第2回展も開かれた。出品作は4作家の版画,彫刻,デッサン計31点で,カンディンスキーは無題の水彩画[図3]と水彩《黒の上の円の習作》[図4]の2点であった。第2回展には油彩《尖端》[図5]が出品された。-57-

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