鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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1930年代1920年代までのカンディンスキー紹介の大半は彼のミュンヘン時代に集中していた。1930年代におけるカンディンスキー紹介は,「新洋画研究」,『絵画論研究』,『純粋絵1925年に小原國芳による『芸術における精神的なもの』と『カンディンスキー1901-1913』の全訳が刊行された後では,特に新しい内容や視点をもたらすものではなかっしかし,カンディンスキーは第一次世界大戦の勃発でドイツを離れ,一時期ロシア(後ソビエト)で美術行政に従事した後,1922年ヴァイマルのバウハウスに招かれ,新たな造形的探究に向かっていた。こうした画家の新しい動向を紹介したのが園頼三である。すでに仲田定之助が『みづゑ』(1925年6月,7月)でバウハウスの概要を紹介し,日本でもバウハウスヘの関心が高まっていた。園も1922年からの留学の際バウハウスを訪れ,カンディンスキーに案内してもらったほか,色彩について語り合ったという(「回想一美の探究に寄せて」『同志社美学』7号)。バウハウス時代のカンディンスキーの最も重要な著作が1926年刊の『点,線から面へ』であり,カンディンスキーの絵画論が具体的な造形要素の分析により展開されていた。園は1929年に同書を抄訳し全体像を伝えている(『美」22巻3号,4号)。さらにこの時期仲田らの勧めでバウハウスに留学し,直接カンディンスキーの教えを受けた日本人も現れる。建築家山脇巌と夫人でテキスタイル作家の山脇道子である。二人がデッサウのバウハウスに入学したのは1930年9月,以後2年余をデッサウとベルリンの同校で学んでいる。在校中二人はカンディンスキーのゼミナールと自由研究の授業に欠かさず出席し,講義で制作された二人の習作も残されているが,その内容は『点,線から面へ』で論じられているような形態の基本的要素の研究が主であったようだ。二人は講義以外にも画家と親しく接し,バウハウスの友人たちのために制作された貴重な銅版画[図11]も持ち帰っている。山脇らが学んだ成果が,特に帰国後の彼らの教育活動でどのように反映されているかという問題は興味深いが,これについては今後の課題としたい。画論』等1930年以降の外山卯三郎の多くの著作における紹介が目立つが,その多くは内容が重複しており,しかも『芸術における精神的なもの』に基づくもので,すでにた。むしろこの時期の紹介で目を引くのは,1938年に創刊された『20世紀』誌に掲載されたカンディンスキーの「具体芸術」と「私の木版画」を間髪を入れず紹介した大島博光の翻訳であるが(『アトリヱ』1938年6月,11月),これを最後に以後30年代末-61-

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