⑥ ウルビーノにおけるピエロ・デッラ・フランチェスカの活動について研究者:共立女子大学文芸学部専任講師池上公平かれ,多くの研究成果が公にされた。にもかかわらずピエロの活動の全体像が全て明らかになったわけではなく,未解決の問題が数多く残されている。筆者の研究課題は,彼のウルビーノにおける活動についてであり,問題の中心は,ピエロのウルビーノにおける活動がどのような広がりを持ったかという点にある。一般的には,ピエロはウルビーノにルネサンスの新しい造形をもたらし,彼の影響はウルビーノのみならず,東北イタリア各地に速やかに広がった,と言われている。このような考え方はロベルト・ロンギの古典的な論文以来広く認められているところである。その影響をもっともよく物語るのがアントネッロ・ダ・メッシーナやジョヴァンニ・ベッリーニ等ヴェネツィアの画家たちであり,またフェッラーラの画家たちやメロッツォ・ダ・フォルリ,レンディナーラ兄弟等の名も挙げられている。とりわけヴェネツィアにおいて1470年代から80年代にかけて起こった様式の変化,すなわち悲劇的な情趣をたたえた作品から遠近法に基礎を置いた穏やかで瞑想的な作品への移行にピエロの影響があると言われている。ここで素朴な疑問が生ずる。基本的にはトスカーナで芸術を形成したピエロが,異なる伝統を持った地域において,なぜそれはどに大きな影響力を発揮しえたのであろうか。それを裏付ける史料は存在しているのだろうか。フェッラーラ,リミニ等ピエロが滞在したことが明らかな場所もあるが,滞在の時期は1440年代,50年代である。ヴェネツィアに関してはそのような記録は知られておらず,ヴェネツィアの画家との交渉についても同様である。そもそもピエロ・デッラ・フランチェスカがウルビーノにどれくらいの期間滞在したかも決して明らかではない。この点を念頭に置きながら,ピエロ・デッラ・フランチェスカがウルビーノで制作したもっとも重要な作品『聖母子,聖人たちとフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ』(ミラノ,ブレラ美術館蔵。以下『ブレラ祭壇画」と表記。[図1])を核として,それがヴェネツィアにおける祭壇画の形式の展開とどのような関係をもっているかについて考察する。1992年にピエロ・デッラ・フランチェスカ没後五百年を記念して展覧会,学会が開-68 -
元のページ ../index.html#78