(1475-76年)である。聖母子が高い玉座に座り,聖人たちは玉座の左右にほぼ半円自分の作品の構図のヒントを得たのであり,アントネッロ,ベッリーニ等はピエロのものを参考にした。これがミースおよび彼の意見を継承するレイヴィンの見解である。しかしピエロやヴェネツィアの画家たちの描く建物の様式はルネサンス風であり,北方の画家たちのそれはゴシック風で,両者の違いは非常に大きい。しかもファン・エイクにせよヨース・ファン・ヘントにせよ,建築空間を幾何学的厳密さを以て描くことにおいては,ピエロとは大きく隔たっている。したがって筆者には,ピエロが北方の画家の作品にヒントを得たとは考えられない。ではピエロがその発想を得たのはいったい何処からであろうか。彼の独創なのか,それとも他の作家からの影響なのか。その点を考えるためにここでヴェネツィアおよび周辺地域の作例とピエロ・デッラ・フランチェスカの作品とを比較してみたい。まず比較すべきはアントネッロ・ダ・メッシーナの『サン・カッシアーノ祭壇画』形に並ぶ。J.ヴィルデによる復原案では群像は交差部のクーポラの下に立つが,天井が実際にクーポラであったかどうかはさだかでない。ともあれ人物が一つの建築空間に収められ,サクラ・コンヴェルサツィオーネの形式を取っていることが重要なのであり,その限りでは『ブレラ祭壇画』に似てはいる。しかし高い玉座をピエロは描いておらず,視点の高さも両者はかなり異なる。画中の人物が立つ位置も二人の画家では異なっていたと推定される。ジョヴァンニ・ベッリーニの『サン・ジョッベ祭壇画』(1487年頃)では天井は円筒ヴォールトで『ブレラ祭壇画』に近いが,聖母はやはり高い玉座に腰掛け,その足元に奏楽の天使がおり,左右には聖人たちがやはりほぼ半円形に並んでいる。建築空間内部の彼らの位置ははっきりしないが半円形もしくは楕円形のアプシスの手前であり,『ブレラ祭壇画』とは異なり,交差部にいるように見えるが実際は身廊にいるというようなトリックはないと思われる。また重要な特徴は,ヴォールトを支える柱のうち手前の二本が祭壇画の枠と一致していたと考えられることである。すなわち祭壇画の枠は,しばしば指摘されるように現実の空間と画中の空間との境界に位置し,人物はこの柱と奥の柱との間にいるのである。視点はアントネッロの作品と同様に低い。ところでこのような形式の祭壇画の最初の作例が何か明らかではないが,これら二つの作品よりもう少し早く,1470年代前半にも類似の構成をもつ作品が見出される。つまりピエロの『ブレラ祭壇画』と類似の構成を持つ作品がほぼ同じ時期に相前後し-72-
元のページ ../index.html#82