鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
84/588

93年[図7])もほぼ同様の構成をとるが,建物の背後は開放されている。高い玉座,このように1470年代前半には,建築空間内部に群像を描く形式がいくつかの場所で時を同じくして制作されているのである。コッサの作品はいわゆるサクラ・コンヴェルサツィオーネではないが,人物と建築空間の合理的関係に関しては大きく異なってはいない。このような状況をどのように考えるべきであろうか。続いてヴェネツィアの作例をいくつか見てみたい。アントネッロにもっとも近いと見なされる画家アルヴィーゼ・ヴィヴァリーニの『ベッルーノ祭壇画』(1485年頃。第二次大戦で破壊。[図6])では,人物は交差部のクーポラの下,前後の柱の間にいる。聖母子は高い玉座に座し,周囲に聖人たちが描かれる。背後の建物は壁で閉ざされている。視点は低い。チーマ・ダ・コネリアーノが描いた『コネリアーノ祭壇画』(1492-低い視点はベソリーニ,アントネッロ,アルヴィーゼ・ヴィヴァリーニの作品と共通している。このような作例をヴェネトからマルケに到る地域で探すならば,枚挙にいとまがない。いかにこの形式の祭壇画が東北イタリアに広く行き渡っていたかがわかる。いずれも建築モティーフが単一の空間を形作り,その下に聖人たちが集っている。周囲は壁がなく開放されている場合もあり,アプシスのように閉さ‘、されている場合もある。天井の形式はさまざまだが交差ヴォールトの場合が多い。また先に触れたようにこれらの祭壇画に共通している特徴は,天井を支える柱と祭壇画の枠とが多くの場合一致するということである。その向こう側の聖人たちが居る位置については常に正確に特定できるとは限らないが,ピエロ・デッラ・フランチェスカの作品と異なり,見かけの印象と作図によって割り出される位置とが異なることはないように思われる。一見するとこの祭壇画形式は『ブレラ祭壇画」と似ているが,詳しく観察すれば明らかな相違点が見出される。一つはピエロ以外の作品では例外なく玉座は高く豪華で,その上に聖母子がいるということである。しかしピエロの絵ではそうではない。マルケ地方でもヴェネト地方でも一様に高い玉座が描かれているということは,それがこの地域一帯での定型的表現形式であったことを示唆する。『ブレラ祭壇画』はこの点からみれば例外である。もう一つの相違点は既に指摘した空間の設定の仕方の相違である。ベッリーニ等は絵の枠を現実との境界と定め,その背後に一定の奥行きをもつ空間を設定し,その中に人物を配する。人物は前後の柱の間にいることが,正確な位置はともかく,明らかである。しかしピエロは人物と建築との位置関係を曖昧にしている。この相違はおそらく両者の制作意図の相違に帰せられるであろう。-74 -

元のページ  ../index.html#84

このブックを見る