鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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に由来する。遠近法の発達と歩調を合わせて従来の多翼祭壇画politticoにかわり,単ー画面形式の祭壇画palaが制作されるようになるが,この形式において群像か,枠などで分割されない単一の空間に描かれるようになる。しかし群像と建物との関係は一様ではない。フラ・アンジェリコの『サン・マルコ祭壇画』(1443年頃)やその他の祭壇画では,場面が屋外に設定されていたり,建物の天井が描かれておらず完全な屋内空間の描写となっていないことか多いなど,ピエロのような例とはかなり異なる。ドメニコ・ヴェネツィアーノはかつての共同制作者であり,ピエロにとってきわめて重要な存在である。ドメニコの『サンタ・ルチーア祭壇画』(1445-47年頃)では聖母はたしかにロッジア風の建物のヴォールトの下にいるのに対し,他の聖人は建物の手前にいるにもかかわらずその位置が外なのか中なのか曖昧である。建物自体の形式もピエロやヴェネツィアの画家たちのものとは全く異なっている。現在フィレンツェのサンタ・トリニタ聖堂にあるネーリ・ディ・ビッチの「聖ジョヴァンニ・グァルベルトと聖人たち』(1460年頃?)では,ヴォールト天井を持つアプシス状の建物の中に集合した人物という点でピエロに近い。しかし建物は小さすぎ,人物との合理的な関係はなく,建築様式も異なっている。ネーリ・ディ・ビッチのような群小画家がこのような形式を創案するとは考えにくく,何らかの発想源があったに違いないが,不明である。しかしピエロとこの作品との関わりは,ないと考えてさしつかえないだろう。二人の接触を裏付ける資料も存在しない。建築によって形成される空間の中に群像を配するという形式は,物語場面であればフィレンツェにも多い。しかし礼拝像でしかも建築の形式,様式とも似ている例,さらに祭壇画と限定すればフィレンツェにはないと断言してさしつかえない。またフィレンツェでは,祭壇画は多くの場合横長,もしくは正方形に近く,縦長の形式は北イタリアに多い。ゆえにピエロ,アントネッロ,ベッリーニ,コッサらの作品の形式は北イタリアに特有のものと見てよいのである。以上のように,ヴェネツィアの画家たちが好んで描いた,縦長の画面に建築モティーフによって単一の空間を形成し,その中に群像を配する祭壇画という形式は,ピエロ・デッラ・フランチェスカの作品ともフィレンツェの場合とも異なっている。この形式はこれらとは別個に,ヴェネトにおいて考案された形式であろう。そしてその成立にはベッリーニエ房と並んでピエトロ・ロンバルドの工房が関与している可能性が,-76-

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