鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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⑧ 九州の中世禅宗美術-大応派の美術ー一1 九州の中世禅宗文化の中の大応派研究者:福岡市美術館学芸課学芸員渡邊雄―大応派とは広く南浦紹明(大応国師)の法系を指す。南浦紹明は自らの活動もさることながら,法嗣宗峰妙超(大燈国師)および,その法嗣関山慧玄がそれぞれ大徳寺,妙心寺を開き,三人を合せて「応燈関」と呼ぶように,今日の臨済禅の主流をなす一派の基を築いたことで知られる。そして,九州の禅宗文化にとって南浦紹明の下向は大きな意義があったに違いない。博多では日本禅宗の興隆の発端となった栄西の入宋および聖福寺の建立かあり,円爾(弁円・聖一国師)の崇福寺,承天寺開創,さらに宋僧蘭渓道隆の来朝など日本の臨済禅の基礎はこの地域を中心として行われたと言って良いだろう。南浦紹明はそのような日本の禅宗が確立する時代にこの地に入った。しかし,その真の姿は後の大応派の繁栄を見るほど明らかではない。文永7年(1270)筑前姪浜(福岡市西区姪浜)の興徳寺に約2年住した後,太宰府の崇福寺に入った。崇福寺は円爾が開いた寺で,長く東福寺の支配する寺であった。弘安3年(1280)円爾が示寂する直前に書いた「東福寺条々」にも,まだ崇福寺が東福寺の支配下にあったことが記される。また,南浦が入院する前後にも山曳恵雲,双峰宗源ら聖ー派の有力僧が崇福寺の住持となっていることからも,南浦の住山によってそれまでの東福寺(聖ー派)の影響を排除して,ただちに大応派が確立された時期とは言い難いと思われる。南浦は崇福寺において33年間も弟子を教化し,東の高峰顕日(仏国国師)と並んで天下の二甘露門と称せられた。1法弟の中から宗峰妙超が出て,大徳寺を開き,後醍醐天皇の寵を得るに及んでその師として名を知られるようになったのかもしれない。しかし,勅命により上京したものの,京都での寺院の開創はならず,かえって鎌倉に下り,正観寺,建長寺と歴住して示寂するというやや不運な経歴を辿った。その後大応派が興隆するに及んで,太宰府崇福寺はそのー中心としての位置にあった。時に大徳寺,尾張妙興寺などもその支配下にあったことが伝えられる。しかし,中世末には次第に住持が空位にあった時代もあったようで,大徳寺瑞峰院の恰雲宗悦が経営を図ったり,豊後の寿林寺が代って行ったこともあるようだ。それも幾度かの-88-

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