鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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回禄ののち豊臣秀吉の島津征討に伴い,岩屋城の戦いの時にわずかの堂宇を残して焼失したという。今日の寺観は江戸時代初期に江月宗玩を中心に整えられたものである。したがって,九州の大応派の中心寺院であった崇福寺の資料は殆ど当初の姿を見ることができない状態である。大徳寺派の興隆はよく知られているところであり,それが今日の臨済禅の中心として確固たる位置を示しているのであるが,南浦紹明が直接指導したその大応派の中心といわれる太宰府崇福寺およびその周辺の北部九州地方の同派寺院の中世文化は如何なるものであったのか,今日ではほとんどはかり知ることができない。それをわずかな現存する美術資料を中心として,文書ほか文献史料を加えて考察,調査してみようとしたのが今回の研究である。2 調査について北部九州という地域的な枠を設けて禅宗の一派の文化を考えようとしたのであるが,これまでの調査方法では各寺院ごとの調書の羅列である調査目録が作成されるだけであった。今回の所定の目的はそうした美術資料を中心に歴史資料を加えて,近世以降構成されたであろう大応派の文化から如何に真実の姿を描くことができるかが課題であった。したがって調査対象を定めて,その資料を位置付けるための座標を考えた。l 調査対象……北部九州の大応国師に関係する寺院(表1)大応国師およびその法系の禅僧を開山と仰ぐ寺院を調査対象とした。それは今日の大徳寺派に属する寺院をまず掲げた。そして,近世に遡り,当時大徳寺あるいは崇福寺に関係する寺院も現存するものは合せて調査対象とした。これら寺院を近世の本末関係をもとに次のように分けることとした。物館・美術館,個人)A 崇福寺(福岡県福岡市)を中心とした寺院B 円福寺(大分県豊後高田市)を中心とした寺院C その他(近世,近代に大徳寺派となった寺院,関東・関西など他地域の寺院,博-89 -

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