⑦ 覚錢による高野山大伝法院の草創_その景観と仏像・荘厳—研究者:新義真言宗総本山根来寺根来寺文化研究所主任研究員大伝法院は,覚鐙(1095■1143)〔図1〕が高野山上に建立した一院であり,和歌山県根米寺の前身寺院である。『中右記』長承元年(1132)十月二十日の条や『根来要書』(以下『要書』)・「東寺長者並高野山検校次第」は,大伝法院本堂等が鳥羽上皇(1103■56)の臨幸を得て,東寺長者信証が新立供養したさまを伝えている。本稿では,このすでに失われた覚鐙草創の大伝法院の景観と仏像・荘厳に着目してみたい。十二世紀前半いわゆる院政期の仏教文化は,華やかな所産の多くを今日に伝えている(『院政期の仏像』京都国立博物館編等)。この期に,大伝法院は当時の権勢をほしいままにした鳥羽上皇の御願寺として高野山上に創建された。根来寺には烏羽天皇像〔図2〕が現存するか,これはこの報恩のために南北朝時代に再興された画像である(『束草集』)。覚鐙は『五輪九字明秘密釈』などに真言密教の新境地を著した事で知られ,その思想が以降の仏教美術に少なからぬ影響を与えたと言われている(中野玄三『来迎図の美術」等)。しかし,これまで史料が少ない事から等閑視されてきた傾きがある。そこで,覚鐙の構想の根本が表されたであろう大伝法院草創当時の有様を,最近の史料を交えて現段階で可能な手がかりをもとめつつ,たずねてみる事にしー大伝法院の草創と史料紹介鳥羽上皇は,白河上皇の崩御に拠って大治四年(1129)に院務を執る事になった。すでに保安四年(1123)崇徳天皇に位を譲り院中に在ったが,実質的な院務はこの年に開始されたのである。早速,白河院政末期に失脚していた前関白藤原忠実を復帰させ体制を整える準備にかかった。覚鐙の活躍と大伝法院伽藍創建やこれにともなう造寺造仏活動は,まさにこの画期に合致していた。『高野山大伝法院本願霊瑞並寺家縁起j(以下『縁起』)によれば,覚鐙は十六歳の時に仁和寺で出家し,さらに東大寺・興福寺で教学を修め,二十歳になって高野山に初参した。保安六年には仁和寺寛助大僧正より伝法灌頂を受け,修行を重ねるなかで,十世紀初頭頃に衰退中絶していた壇上のたい。-89 -中川委紀子
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