鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
101/747

伝法二会(修学会•練学会)の復興を発心するにいたった。頂像であった事に着目しておくに留めたい。次いで大伝法院には,石手荘•岡田荘・覚鐙の伝法会復興すなわち大伝法院草創への動きは,大治元年七月・供料石手荘が寄進され,同年立券された事にさかのぼる。大治五年四月八日には,小伝法院と称されている建物が建立され丈六尊勝仏が安置された(『要書』『縁起』「東寺長者並高野山検校等次第」)。ところが,『縁起』は天承元年(1132八月長承改元)冬日に,再び伝法院新始の事を伝えている。近世の記録であるが『高野春秋』は,大伝法院の起工であろう伝法院の再建を,門徒漸増し古院小伝法院の小狭の故の事としている。しかし,この再建の記事は,本格的な大伝法院造営が大治四年の鳥羽上皇による権力の集中を待って着手された事を思わせるかのようである。というのは後に示すように,再建された大伝法院は到底手狭な建物を改築したとの理解では首肯できない程の規模と荘厳を具えるからである。とまれ,ここでは,小伝法院建立については,本雌像か尊勝仏山崎荘・弘田荘・山東荘が立券され,同時に覚綾の私院密厳院にも相賀荘が寄進される。そして長承元年十二月には院宣が下され,大伝法院の御願寺としての経営が確保されるにいたるのである(『要書』)。さて,この大治五年の小伝法院建立から長承元年十月十七日の新立御堂すなわち大伝法院本堂供養に至る時の経過は,白河上皇から鳥羽上皇への激しい支配移行と,この動きに連動した摂関家藤原忠実とその子忠通,頼長の確執の時でもあった。[中右記』長承元年十月十三日は,高野詣する鳥羽上皇の門出の様子が記されているが,一行には上皇を筆頭に大殿(藤原忠実)•関白(同忠通)・左衛門督雅定・中宮権大夫忠宗以下殿上人十三人慇従している(『公卿補任』)。一行に長承元年内覧の院宣を受けて実質的な復権を果した忠実が参じている事は,後述する本尊の造像事情を考え合わせると興味深い。覚鐙の大伝法院伽藍草創は,こうした時代のうねりの中で結実していった。大伝法院史料こうして長承元年に高野山壇上伽壁に創建された大伝法院は,仁治年間(1240■2)に本末寺の確執の果てに回禄する(後述「醍醐寺文書」104副進)。当初の大伝法院の中核が壇上に在ったのは約百年の間であった。因みに,覚鐙の法燈は,その後山上に蘇る事なく正応年間(1288■92)・大伝法院第四三代学頭頼喩の時に現在の根来寺の-90 -

元のページ  ../index.html#101

このブックを見る