鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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地(大伝法院領弘田荘)に寺籍を移し,本昨丈六三諄像(重文)(『根来寺史』ー)[大日如来のみ]〔図3〕が現在地に復興造像されたのは,嘉慶元年(1387)〜応永十二年(1405)の事であった。この失われた大伝法院壇上伽藍の堂塔・安置仏を記す史料は意外に少なく,既に知られている『中右記』『要書』「縁起」「真俗雑記問答抄」「大伝法院本願聖人御伝」等に拠っても,その興亡の一端を偲びうるにすぎなかった。ここでは上記の文献に,「大伝法院座主補任次第大伝法院堺内並本尊等目録」(醍醐寺文書ー0四函ーニー号以下「醍醐寺文書104」)と高野山水屏風(重文・文化庁蔵)をくわえてみたい。「醍醐寺文書104」は,近年紹介(『興教大師覚鐙研究』春秋社)されるまで一般にほとんど知られる事がなかった史料である。幸いにも今回,御所蔵者のご厚誼によって実見の機会を与えられた。主な内容は四部に分かれ,本稿で主に紹介する部分は(二)にふくまれる大伝法院堂塔本腺仏具等史料で,文書中では「合」と称されている(以下「合」)。「合」に紀年はないが,久安五年(1149)建立の院坊覚畠院(『要書」)の記載がある事から,この年以降に成った然るべき大伝法院文書をもとに著わされたと考えられる。「合」には,大伝法院各堂塔の規模や本尊以下の安置仏,曼陀羅,壁画,柱絵等の堂内荘厳,仏具ならびに仏師,絵仏師が掲げられ,文中の仏師・絵仏師の活躍年からも焼失以前,すなわち創建当初の大伝法院を著わしている事を知り得る。したがって,覚鐙独自の図像・構想を知る新たな手がかりとして,その重要性を示唆するものと思われる。ニ大伝法院の景観「合」によれば,大伝法院壇上伽藍は密教寺院の主要堂宇を整えた十三宇の独立した一院を構えていた。その構成は本堂・宝塔・不動堂・御社宝殿・同拝殿・聖霊堂・同拝殿・経蔵(二宇)・鐘楼・護摩堂・温室・覚皇院であるが,伽藍には私院密厳院・東西僧房等もあったと考えられ最盛時の寺観は壮大であった(『要書」『紀伊続風土記』)。さて,空海が弘仁七年(816)に草創した壇上伽藍は,正暦五年(994)に御影堂をのぞいて回禄したので,覚鐙の眼に映じた壇上伽藍は,それ以降のものであった。諸堂の再建は,長徳四年(998)の講堂(=金堂)から着手され長年月を要したが,灌頂堂・大塔・西塔と順次整えられた。そして,大伝法院の建立が行なわれた十二世紀前半当時の本寺金剛峯寺は,朝野の信仰をあつめ,権門寺院として全盛期をむかえていた(石井進「十二〜三世紀の日本」『岩波講座日本通史』第7巻•藤井恵介「高野山-91-

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