鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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金堂と両界曼陀羅を安置する本堂」『建築史学』第7号等)。こうした盛時の金剛峯寺や大伝法院の景観が絵画上にとどめられている可能性を求めてみたい。『高野山文書』には,「1225高野山図」が紹介されている。挿図には金剛三昧院屏風縮図(天保模写)と端書され,「金堂大塔春景伝法院夏景金剛三昧院秋景奥院冬景」とある。これは画面が四季山水図屏風の形式から成り,各季節に当該堂塔が布置することを語っている。高野山上の伽藍図として伝存する諸本に金剛三昧院旧蔵本・高野山図の原本に該当する例を求めてみたところ,高野山水屏風(重文六曲一双絹本着色文化庁蔵)〔図4〕が斯本である事を確認し得た。両者を比較してみると,挿図の画格は到底時代を超えるものではないが,画面点景の布置は斯本と一致し,部分の検討を要するであろうが失われた大伝法院伽藍を画面上で再見する事が可能となった。高野山水屏風(文化庁本)はすでに知られた作品で,村重寧氏の論考(「商野山水屏風研究」『ミューゼアム』206)がある。ここでは右隻左二扇が大伝法院であると論証され,またさながら実景を見るような写実性と装飾性を合わせ持つ細密で丁寧な描写であることから形式化・装飾化がすすむ1300年以前の制作としておられる。さて,『高野山文書』記載に拠る四季景観の中で「伝法院夏景」は,高野山水屏風の向かって左隻右二扇で,先に示された右隻左二扇は金剛三昧院秋景である。両者の場面設定に隔たりが生じている大伝法院の布置について「合」の記述を引いてみたい。「合」の本堂は宝形造二階三間四面(内陣)であり,あわせて伽藍構成,細部の注記を屏風画面に照らすと,布置は『高野山文書』の記述と概ね合致するようである。しかし高野山水屏風は真景図ではなく絵画的な再構成がなされているであろうし,個々の堂宇を確定するには建築史の立場等からの精密な検討を要するであろう。一方,本屏風の成立を考える場合,当時の金剛三昧院と大伝法院の関わりが関与した可能性があろう。金剛三昧院は,北条政子が源実朝と北条氏の菩提を弔う為に貞応二年(1223)に建立し,また創建時の多宝塔と五仏を安置する事が知られている。当院が幕府の濃密な背景をもって成立した時,開幕以来鎌倉と縁のあった僧定豪が,先んじて大伝法院第十二座主に任(承久二年1220)じられている(「醍醐寺文書」104)。師は,覚鐙の師寛助の法流をくむ忍辱山円成寺兼豪から伝法灌頂を承けた僧であり,こうした因縁が金剛峯寺・金剛三昧院・大伝法院をして,一双の屏風に仕立てる契機になったとも考え得ないだろうか。-92 -

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