天蓋・台座等の記述はない。本像においても,記述は光背の表現に集中し,頭光身光には八大仏頂・八大菩薩の金銀種子が付され,縁光にも同様の八大仏頂・八大菩薩が付されていたが種子か形像かの確定はされていない。八大仏頂は尊勝仏頂の居所である胎蔵界曼陀羅釈迦院の各仏頂であり,八大菩薩は一切仏頂中最勝の尊勝仏頂を本導として一切の障害を取り除く尊勝法を執行する際,尊勝曼陀羅において主尊を囲続する菩薩である。以上三尊像は大日は密教教主として,金隋薩唾は教義の伝授者を位する尊像である。また尊勝仏頂像は,先の小伝法院本導としても奉安されたが,院政期においてはその信仰が盛んであった。殊に,白河・鳥羽両院は度々供養を営んだようである(林温「東京国立博物館保管虚空蔵菩薩画像に関する若干の考察『ミューゼアム』475等)。これら大伝法院本尊三尊像の翻案はまさに覚鍍の意趣によると考えられ,三尊の構成そのものの図像および教学の立場からの考察も必要であろう。また根来寺の現存本雌としてこの三尊像を伝存していることは歴史的な意味があるといえよう。次いで,三檸像の仏師について「以上三腺覚院作」とある。これは「合」の紹介以前には知り得なかったことである。写本を拝見したところ覚と院の間には雁点が付されており覚院は院覚であると理解できる。(一)で述べたように大伝法院の草創期は,鳥羽上皇の院政と藤原忠実の復権期に遇った。この上皇・忠実・院覚をめぐる造像事情は,清水真澄氏による論証(「院政期における一仏師の生涯ー」『院政期の仏像』)がある。大伝法院草創,外護者,仏師の三者に年代の鮒輛ないことによって,「合」の信頼性は一挙に高まったといえよう。仏師院覚は,定朝の正系を継ぐ院派仏師として大伝法院本尊造像に先立つ,長承元年二月法成寺両塔の両部大日如来四艦を造像した。これは白河院の不興をかって頓挫していた事業で,忠実と院覚の完全な復帰を意味した。この時院覚は,法眼位を賜ている。本堂内・定智筆両界曼陀羅等の事大伝法院本堂内部空間には,定智筆・両界曼陀羅及び後壁画(胎蔵後壁南天鐵塔龍猛開戸之作法金剛界後壁釈迦成道儀式図)以下仏絵師は不明であるが三尊後壁諸尊画・柱絵両界諸仏・廂間後壁東西壁十六祉師像が描かれていた。堂内はすなわち過差,当代一流の仏師絵仏師による豪華絢爛たる世界であった。壁画等は,既に『縁起』(正-94 -(ママ)八大菩薩と関連して仏師院覚をめぐって」
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