鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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立された大伝法院弘田荘(現根来寺)の覚鐙の私院の造仏(『要書』)にもたずさわっており,康助は計五艦の造像に参画している。院覚が本堂を,そして康助が周辺諸堂の安置仏を承ったのであろう。これらのなかで覚皇院像には,「天蓋有之裏有木像彩色飛天以大師御筆東寺講堂仏康助模之」の注記があり,殊に康助が東寺講堂の大日如来像を学んだ文言は見逃せない。康助は,覚助の弟子頼助の息子すなわち御寺興福寺を本拠におく奈良仏師の嫡流であった。従って康助と大伝法院の外護者の一人である藤原忠実との関係は,院覚以上に必然的である。康助の事績は永久四年(1116)忠実発願,春日西御塔四方四仏造像(『殿暦』『僧綱補任』)に始まるが,忠実失脚と命運を共にし,再び史上に登場したのは大治四年の忠実復権以降の事であった。そして,長承元年五月には鳥羽院に薬師十二神将造進(『長秋記』)した。すでに述べたように烏羽院・忠実等が大伝法院新堂供養に赴いたのは,同年十月十七日の事であった。康助が大伝法院の造像に参加するに至る詳細な事情は不明であるが,鳥羽院と忠実・忠実と康助を囲む環境を考慮すると,康助が復権後の比較的早い,この時期に院の造像に関与している事は留意するべきであろう。康助の確かな遺作はないものの,武笠朗氏は論考(「奈良仏師康助と高野山谷上大日堂旧在大日如米像」『仏教芸術』189)において,藤原忠実発願高野山谷上金剛心院大日如来像を久安四年(1148)康助造像であるとの可能性を指摘された。「合」・『要書』によれば,この時すでに康助は壇上において不動堂丈六不動尊像,丈六二天像(中門),私院の大日如来像を造像し,この実績を踏まえての金剛心院像の造像であった可能性も考え得る。しかも,覚皇院の建立は翌年久安五年のことであった。武笠氏が論考冒頭で「院政期の奈良仏師研究は後代鎌倉初期慶派様式の成立課程の解明という極めて重要な命題のもとに語られる」と指摘されているが,この意味での奈良仏師・康助が,覚皇院大日如来造像において東寺講堂仏を模したという部分は示唆的である。すでに,覚鐙が多くの事を東寺から学んだ例を挙げたが,そうした導きもあったのであろうか。様式分類の角度から奈良・長岳寺阿弥陀三尊像両脇侍から円成寺大日如来像さらには光得寺大日如来像への流れの中で頭髪,着衣等に東寺講堂五菩薩当初像からの学習が跡付けられている(前出山本氏論考)。こうした指摘を文献的に,且同時代的に裏付ける史料として「合」の記述は見逃せないものであろう。-96-

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