—漢中・安康地区を中心に一一⑧ 中国漢・南北朝時代の小文化センターについて研究者:筑波大学芸術専門学群講師八木春生成城大学短期大学部I.はじめに中国南北朝時代の美術史研究は,大同・洛陽・南京といった文化の中心地の局地的な研究が主流であった。これは研究資料がこれら地域に遍在していたことが大きな要因であるが,そのため南北朝時代芸術の枠組みは,中心的な文化センターの研究からのみ作られてきた。その枠組みとは南北朝芸術を大同・洛陽から設定される北朝様式と南京で設定される南朝様式に分け,両様式を対立するものとして捉えるものであった。近年考古学調査が進展し,これまで報告が無かった地域でも新しい資料が知られるようになった。ところがその中には北朝・南朝様式の対立といった,従来の構図では捉えきれないものが含まれていた。その結果大同・洛陽・南京といった中心となる文化センターだけではなく,そこからの影響を受けながらも独自性を持った地方的な文化センターの存在がクローズアップされてきたのである。以下中心的な文化センターを「大文化センター」,地方的な文化の中心を「小文化センター」と呼ぶこととするが,我々はこのような小文化センターのあり方を検討することで,従来の南北対立的な南北朝芸術史観とは異なった新たな枠組みを提出できると考えている。このように本研究は小文化センターの実体の検討を目的としたものであるが,対象とする地域として我々は快西省漢中・安康地区を選ぶこととした。我々がこの地域に注目したのは,これまでの資料から,この地域の墓葬には北朝系・南朝系では割り切れない特徴があることに気づいたからである。それは以下のようなことである。南北朝時代の墓葬では,これまで北朝と南朝では墓葬装飾と桶のあり方が異なっているとされてきた。北朝の墓葬では墓葬内の装飾に壁画が使われ,桶は種類が多く,副葬される数も墓葬1基で数十体以上と多量である。これに対して南朝の墓葬では,墓葬内の装飾には画像碍が使われ,桶は種類が少なく,副葬される数も少ない。ところが漢中・安康地区の墓葬では,装飾には画像碑が用いられているにもかかわらず,副葬される桶は多種で多量なのである。つまり装飾においては南朝の特徴を,桶につ講師小澤正人-100-
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