III.南北朝時代の漢中・安康地区について504年に北魏の支配下に入るまで,漢中・安康地区は東晋・劉宋・南斉・梁といった部分については枝の部分に怪獣・動物・五錬銭が鋳造されており,漢中地区出土のものと同じ作りとなっている。碍廠墓出土例の仏像と比較できるものは非常に少ないが,綿陽市何家山1号墓〔図3〕(注4)'忠県塗井5• 14号墓(注5)に出士例がある。いずれも肉髯と施無畏印を持つ仏像で通肩及び衣の一端を左手で持つ点も共通している。このことから四川省と漢中地区との間には密接な関係が存在していることがわかる。南朝の領域に属していた。535年に再び梁の支配下に入るが,552年には西魏の領土となり,南朝に戻ることはなく北周の領域となり,隋の統一を迎えるのである(注6)。安康地区からは「太元十九年(394)」「元嘉二十七年(450)」「永明四年(486)」など,東晋,劉宋,南斉の年号が刻まれた銘文碍が出土している。ただし梁の年号の場合,「天監二年(503)」だけでなく,「天監五年(506)」銘や「天監十七年(518)」銘などの碍があり,北魏の支配下に入ってからも梁の年号が使われていたことが知られる(注7)。なお北周の年号である「建徳四年(575)」の銘を持つ碍が,安康地区と湖北省の境界付近から一枚採集されているが,安康地区で北周の年号が刻まれたものは,これ以外にはほとんど存在しないという(注8)。このことから安康地区は,北朝の支配下に入ってからも,南朝文化の強い影響を受けていたと考えられる。一方漢中地区からは,南北朝時代の銘文碍が出上していない。だが安康地区同様,南朝で流行した画像碍墓が発見され,しかもそれは500年代中頃に造営されたと考えられるので,漢中地区の人々も自分たちが南朝に属しているという意識を持ち続けていたと思われる。ところで,漢中及び安康地区の画像碍墓からは,様々な種類の陶桶が大量に出土し,その中には墓主の出行を表すために造られたであろう騎馬桶や牽馬桶,そして牛車桶などが見いだされる。これは普通,北朝墓に見られる特徴である。南朝,とくに南京付近の南斉墓や梁墓では出行図は画像碑上に刻み出されることが多いので,このような桶の出土例が報告されていない。すると北朝からの影響も完全には無視することができないことになる。そこで漢中及び安康地区の墓葬から出土した画像碑と陶桶という二つの特徴的な遺物を分析することで,これら両地区と南朝並びに北朝との関係を明らかにし,また漢中地区と安康地区の相違についても考察したいと思う。-102-
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