鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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A.新康廠天監五年南朝墓出土の画像碍についてa.挿花文様碑安康地区で発掘された南朝墓としては,長嶺画像碑墓が有名であり,そこからは簡単な植物文様が刻まれた画像婢と,65体の陶桶が出土したことが報告されている(注9)。しかし今回の調査で,安康市内の新康廠からも近年重要な南朝墓が発見されたのを知ることができた。この墓葬は,発掘時に前半分か破壊されており,本来のプランが既にわからなくなっていたという。しかしそこからは「天監五年」(506)の紀年銘を持つ碑や,各種の文様か刻まれた画像碍,そして陶桶などが出土した(注10)。先に述べたように「天監」は南朝の梁の年号であるが,現在のところ南京付近でも500年代初頭の紀年銘を持つ梁墓は,ひとつも発見されていない。天監十七年(518)に卒した篇秀の墓や,梁普通二年(521)墓などが,これまで造営年代を確定することができる最古の例に属していた(注11)。それゆえこの新康廠天監五年南朝墓の発掘によって,空白であった500年代初頭の南朝(梁)の墓葬芸術の一端を明らかにできる可能性がでてきたことになる。そこで出土した画像碍のうち,興味深いものをいくつか取り上げ,見ていくことにする。まず,〔図4〕と〔図5]にあげたのは,同一の種類のものであり,本来はこの二つが結合した形,つまり蓮華座に載った長頸瓶に,蓮華を挿した図が刻みだされていたと考えられる。中国には元来,花を瓶に挿す「挿花」の伝統はなかった。しかしインドではBC二世紀中頃には既に,ストゥーパが,「満瓶」文様と呼ばれるこれと類似する文様で飾られたことか知られている。したがってこれはインドの伝統文様であり,仏教芸術とともに南朝へ伝えられたと考えられる(注12)。注目すべきは,南京の鉄心橋王家i圭南朝墓から,これとほぼ同じ構図を持つ画像碑が出土していることである〔図6〕。長頸瓶が蓮華座の上に載るだけでなく,側面形の荷葉や花が刻まれる点や,瓶の左右に半パルメットが垂れる点なども両者の密接な関係を示している。新康廠天監五年南朝墓出土の画像礁の方だけに,吉村怜氏が「変化生」と名づけられた文様(注13)か見られるなど,両者にはいくつか相違点も見いだされるが,安康地区が,南京の芸術の影響を強く受けていたことは明白である。南京から型を取り寄せ,それを用いて碍を焼成した可能性も否定できない。そしてこれまで不明であった鉄心橋王家注南朝墓の造営年代が,新康廠天監五年南朝墓と同じ頃であるとしてほぼ間違いないと思われる。なお,北朝でこのような「挿花J文様が流行するのは,520年代以降のことであ-103-

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