鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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る(注14)。b.獣面文様碍次に〔図7〕であるが,これには獣面文様が刻まれている。南朝では,鎮江の東晋時代の墓葬から獣面文様の画像碍が出土しているし(注15),北魏でも,棺に獣面の飾りを付けることが早くから流行していた(注16)。漢代には,獣面が僻邪として用いられたことから,これは漢民族の伝統に基づく文様であったと思われる。けれども〔図7〕の獣面文様の場合,口の下から全パルメット文様が下に向かって伸びるという特殊な形式を備えている。そして南京鉄心橋王家荏南朝墓から出土した,やはり獣面を表すと思われる文様の口部からも,同様に全パルメット文様が伸びているので〔図8〕,この獣面文様が南京芸術の影響を受けて作られた文様であったと考えることができる。〔図9〕の画像碍は,六角繋ぎ文様の中を,植物文様や摩尼宝珠文様で充填するという珍しい複合文様で飾られている。六角繋ぎ文様は,西方より伝えられた文様である(注17)。中国では姻霊寺第169窟第6寵など,古く(420年代)から北朝の領域で見いだされ(注18),洛陽遷都以後も石棺の装飾として用いられている〔図10〕。しかし南朝では,これまでこの形式の文様をひとつも見いだすことができなかった。六角形の中に入れられた,鉱物の結晶のような形をした摩尼宝珠も西域起源であるが(注19),これも南朝の領域からはひとつも発見されていなかった。それを半裁した文様は(西域ではキジル石窟などに見られるけれども),北朝でも洛陽遷都以前はほとんど流入していない。龍門石窟では,505年頃から盛んに彫り始められることが知られている(注20)。〔図11a, b〕に示したのは,龍門石窟古陽洞北壁第三層第一寵に線刻された摩尼宝珠文様である。これは,雲に乗り漢民族の衣を纏った,いわゆる「南朝式の飛天」とともに刻みだされているが,その蓮華座の下からは〔図7〕で見た獣面文様のように,全パルメットが伸びている。したがって500年代初めには,南朝にも西方起源の文様が流入して来ていただけでなく,それが南朝風にアレンジされて北朝へ伝えられた可能性のあることが理解される。d.その他の文様碍この墓葬からはまた,ロゼット文様や,盾を持って直立する武人を刻んだ碍が出土している〔図12,13〕。南京付近の南朝墓から同種の画像碍が出土しているが〔図14,15〕,形式はかなり異なっているので,これらは安康地区の人々が,自分たちで南朝のC.六角繋ぎ文様碍-104-

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