流行形式を模倣して作りだしたものだと考えられる。しかし前者に最も近い形式のロゼット文様が,漢中雀家営墓に存在し〔図16〕,後者と比較的近い武人像碍が,河南省登閥県画像碍墓に刻み出されていることは注目に値する〔図17〕。B.新康廠天監五年南朝墓出土以外の画像碑について安康地区には規模は小さいが,この他にも多くの南朝墓が存在する。発掘ではなく採集品であり,紀年銘も持たないことから,制作年代が正確には判断できない画像碍の中にも,いくつも重要なものを見いだすことができる。〔図18〕と〔図19〕は,安康莫安から採集されたものである。ほぼ同じ形式の画像碍は,湖北省襄陽買家沖画像碑墓から出土している〔図20,21〕。後者の方が技術水準が高いと思われるが,〔図18〕や〔図20〕のように胴部が尖った長頸瓶を二つ並べる形式ゃ,〔図19〕や〔図21〕のように人物の背景が半パルメット文様で飾られる形式は,北朝の領域はもとより南京にも存在しない。そこでこれら莫安出土の画像碑は,南京ではなく,襄陽地区の影響を強く受けていたと考えられる。安康地区の人々が,北朝の支配下にあっても自らは南朝に属しているという意識を持っていたであろうことは先に指摘した。彼らが南京の文化を好んでいただけではなく,南京から直接影響を受けていたであろうことも遺物から知ることができる。それゆえ安康地区は,画像碑に注目する限り,一見南朝の文化圏に属していたと考えられよう。しかし南京以外にも,襄陽や登隅県からの強い影響が見られることに注意する必要がある。襄陽と登隅県とは,ともに南陽盆地にあり,要陽買家沖画像碍墓から出土した画像碍の文様は,南京に同形式のものを見いだすことができないが,登隅県画像碍墓出土の画像碑と多くの共通点を持っている(注21)。そしてなによりも重要なのは,襄陽や登隅県が,安康や漢中と同様漢水流域に位置しているという事実である。つまり漢水流域には,墓室内を画像碍で飾る点で一致するけれども,南京を中心とする南朝文化圏と少し異なる文化園が形成されており,安康地区は直接的にはその文化圏(漢水流域文化圏)に属していたと考えられるのである。では,安康地区ほど多様な画像碍が出土していない漢中地区も,やはり漢水流域文化圏に属すると考えてよいのであろうか。もしよいのであれば,安康地区や南陽盆地(漢水中流域)との間にどのような影響関係が見られるのであろうか。これらの問題について言及するため,漢中市雀家営墓出土の陶桶に注目して論を進めることにする。小結-105-
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