鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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IV.おわりにる習慣であることが指摘されている(注25)。安康長嶺画像碍墓出土の陶桶と,襄陽買家沖画像碍墓出土の陶桶の間にも,共通点のあることが指摘されている(注26)。それは,どちらも二つの型を合わせて作る合模制で,頭部と体部が別々の型で作られているだけでなく,ちょうど合わせ襟の部分でぴったりとはまるように,頭部がV字形に形作られた胸部と一緒に作りだされている点である〔図32〕。このことから安康地区は,陶桶の製作技法においても南陽盆地(漢水中流域)地区と影響関係を持っていたことが知られる。またこれら二つの墓葬からは,ともに南京からは一体も出土していない「脆拝桶」と呼ばれる形式の陶桶が出土するが,このことも両地区の間の密接な影響関係を示している〔図33,34〕。小結在家営墓出土の陶桶を中心とした分析から,漢中地区は南朝はもとより,北朝の文化圏にも属していないと考えられ,基本的に漢水流域の文化圏を形成する小文化センターのひとつであったことが知られた。しかし安康地区のように,南陽盆地(漢水中流域)地区の墓葬と直接的な影智関係を持たなかったことは注目に値する。つまり漢中地区は,漢水流域文化圏の中で地方性を有したことになる。それは,陶桶の製作技法の面に強く現れている。安康地区の一部の墓葬からも,漢中地区と共通する製作技法を用いた陶桶が出土するので,安康地区と漢中地区の間の影響関係が認められる。だが雀家営墓出土の陶桶には,四川地方など,安康地区には見られない地域からの影響が看取される。幹に仏像が付けられた揺銭樹が出土したことから知られるように,漢中地区は,既に漢代から四川地方と強い結び付きがあった。それゆえ南陽盆地(漢水中流域)地区の情報だけでなく,自らの伝統が混合した結果,雀家営墓から出土したような独特な陶桶が作りだされたに違いない。一方,安康地区出土の陶桶は,南陽盆地(漢水中流域)地区や漢中地区のみならず,麦積山石窟など北朝の仏教文化センターとも影響関係が認められる。このことから,安康地区にも独特な地方性のあったことが理解される。以上,漢中及び安康地区から出土した画像碍と陶桶を中心に,考察をおこなってきた。画像碍の分析から導かれることと陶桶の分析から導きだされる結論とは,完全にC.安康長嶺画像碍墓出土の陶桶と襄陽買家沖画像碍墓出土の陶桶との関係--107-

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