注(1) この事象に注目したのは小林仁氏である。小林仁「南北朝時代桶の研究」(1993年は一致していない。これはおそらく,画像碍と陶桶を作ったエ人の違いに起因するものと思われる。また平面的な図案の方が立体的な彫刻より模倣しやすいことや,画像碍の型の方が陶桶の型より流通しやすかったことなども関係していたに違いない。だが,画像碍については南京文化との間に密接な影響関係が見いだせるにもかかわらず,陶桶は南京から出土したものと共通点を持たないという事実は,単に技術や流通の問題として処理してしまうことができないと思われる。さらに陶桶の場合,北朝の領域にも同形式のものが存在しないことは重要である。墓の壁面を画像碍で飾り,内部を多種多様で特殊な陶桶で満たす墓葬形態は,漢水流域に点在するいくつかの地区だけに見られるのであるから,それらの地区(小文化センター)が,北朝や南朝と異なるひとつの文化圏を形成していたことを認めてよいと考えられる。しかしそのような墓葬形態を持った小文化センターは,北朝と南朝の境界に位置するという理由のみから漢水流域に集中したのではない。それらの小文化センターは,おそらく南陽盆地(漢水中流域)地区を中心に存在したであろう中規模文化センターからの情報を受容し,それを基盤としたため,漢水流域文化圏とも呼ぶべき文化圏が形成されることになったと思われる。しかし,これが単に北朝文化と南朝文化の折衷であるとしたり,この文化圏に属する小文化センターが,どれも等質の文化を持つと考えたりするのは間違いである。漢水流域には,北朝文化,南朝文化いずれとも異なるけれども,ゆるやかなつながりを持った文化圏が形成されていたのである。現時点では,南陽盆地(漢水中流域)地区にその中心があったと推定されるが,果たしてなぜこの地区が中心となりえたのか,またこの地区に直接的な影響を与えたのがどこの地域であったのかという問題までは回答を用意することができなかった。したがって今後は,南陽盆地(漢水中流域)地区における現地調査を行うことが課題としてあげられる。また南陽盆地と比較的近い位置にある洛陽や,画像碍墓でありながら,南京には見られない種類の陶桶が出土している漢水下流域の武漢などの大文化センターに注目し,これらの地域と漢水流域文化圏との関係について調べることも重要であろう。--108-
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