によると,すでに明治25年頃には,西洋のアール・ヌーヴォー様式の器物の模写が始められていた。そして,「器物図集巻3」によると,明治33■38年にかけては外国雑誌を参考にして,まさに連日にわたり入念な作品のデザイン作成が行われている。そして,それらの研鑽をもとに,当時の陶芸界にあって唯一の専門雑誌であった『大日本窯業協会雑誌』の毎月の巻頭の口絵に,全国の陶芸家の参考とするために,波山の創作図案がしばしば掲載されていた。波山の口絵は,明治31年1月号より明治40年7月号までの,合計34点を数える。興味深いのは,パリ万博のあった明治33年を境に,明治34年よりの口絵をがらりと方向転換させて,ほぼアール・ヌーヴォー様式一色にする点である。パリ博での日本の窯業界に与えたアール・ヌーヴォー様式の衝撃がいかに大きかったかが推察される。さて,それでは波山は具体的にどのような外国陶磁に憧れを抱いていたのであろうか。彼のデッサン集には,その記録が残されている。例えば「器物図集巻3(No. 3)」(明治33年9月)〔図1〕では,デンマークのロイヤル・コペンハーゲン窯のイチョウ文の花瓶を写している。花瓶の上半部は「コバルト吹掛」で青の彩色,そしてイチョウには「クロム下絵」により緑の彩色と,波山は図案の脇に注記している。ここでの下絵とは,釉薬の下に絵付けを施すことである。コバルトやクロムという顔料は,釉薬の下の素地に直接付けられるわけである。また「器物図集巻3(No. 6, 7)」(明リカ製の陶磁の花瓶が写生されている。それぞれまさに生命を謳歌するような植物文が,S字形曲線をもって浮彫で表されており,まるでエミール・ガレのガラス器を思い起こさせるような様式の作品である。注目すべきは,波山の注記からはとんどの作品の彩色がロイヤル・コペンハーゲン窯の花瓶と同じように,釉薬の下,つまり「釉下彩」で絵付けされていることである。この「釉下彩」装飾の西洋陶磁から受けた波山の深い感動は,一生彼の体に染み込んでいたようで,「彩磁」〔図2〕や「慄光彩磁」と呼んだ彼独特の「釉下彩」に終生こだわって作陶を展開したのである。この「釉下彩」とは,江戸時代以来の日本の伝統的な装飾手法である釉薬の上の絵付け(いわゆる釉上彩のこと)とは全く異なり,釉薬の下の絵付け(いわゆる釉下彩のこと)のことである。これまでの日本の近代陶芸史では,この「釉下彩」の系譜に関して,あまり深く追究されてこなかったように思われる。だが日本の陶芸史の流れから眺めた場合,この「釉下彩」のもつ意味はきわめて大きいと言わねばならない。治34年5月,東京商品陳列館備品の写生)では,フランス製,スウェーデン製,アメ-123-
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