というのは,西洋の陶芸界,特にフランス,イギリス,デンマーク,スウェーデン,オランダで十九世紀末の主要な装飾法は「釉下彩」であり,この「釉下彩」の導入はそれまでの日本の釉上彩(上絵)に比して,表現できる色彩の幅を格段に広げたからである。江戸時代前期から明治期までの約250年間,日本の鑑賞陶磁の装飾技法の王道を歩んでいたのは,釉上彩(上絵)であった。肥前磁器では古九谷様式,柿右衛門様式,鍋島様式,京焼陶器では仁清,乾山(一部釉下彩の作品あり),古清水などほとんどの著名な陶磁の様式が,美しい五彩による釉上彩で装飾されてきたのである。この釉上彩中心の装飾の流れは,明治前期の西洋への輸出時代においても変わらなかったのである。しかしその状況が,明治20年代末頃からー変することになるのである。さてこの「釉下彩」に関して,その他にも波山の興味深いデッサンがある。「器物図集巻3」のいくつかのデッサンに,色彩の効果についてしきりに「ロクウド風に」と書いているものが確認できる。つまり「ロクウド」を目標に,色彩を施すようにという注記である。この「ロクウド」とはなんであろうか。それは,実はアメリカのシンシナティにあるロックウッド窯を指していることが判明した。近年アメリカのジャポニスム研究が進み,アメリカのジャポニスムを代表する工房として,このロックウッド窯はきわめて注目されている。波山は当時嘱託で勤めていた東京高等工業学校で,このロックウッド窯のブドウ文の花瓶を実見したことをデッサンに記録している。波山が特にロックウッド窯で注目していた点は,色彩の微妙な濃淡や,色彩のグラデーションの表現であった。例えば,デッサンには「ロックウッド風に影をつけ鉄の液を吹く」,あるいは「液を吹きロックウッド風にする」というような書き込みがみられる。ここでいう「液を吹く」というのは,つまり液体の顔料を吹き付けるという意味で,「吹き絵」とか「吹きかけ絵付け」というものである。液体の顔料をエイログラフと呼ばれる噴霧器によって,いわゆる霧吹きのようにして色を差すやりかたである。この「吹絵」によって文様に微妙な濃淡が表現でき,モチーフに立体感をもたせることを可能にした。これこそが「釉下彩」の釉上彩にはない最大の特徴ということができよう。ちなみに肥前の有田には,この英国製のエイログラフが明治32年に入っており,この頃に日本で普及したものと思われる。次にこの「釉下彩」に並んで,波山が西洋陶磁に深く影響を受けた釉技として「結晶釉」がある。「結晶釉」は窯での焼成中に火烙の性質その他の原因によって,偶然の予定しない様々な釉色の変化をねらったものである。特に「結晶釉」とは,釉が溶け-124-
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