厚の素地に,いかにも無秩序に自然に流れたような味わいをもって再現されている。シャプレの作品は1889年のパリ万博で発表されたが,彼のいわゆる窯変釉の磁器は,明らかに一種退廃的な色彩を宿しており,それがむしろ世紀末のフランスの美術界に大いに歓迎された。そしてシャプレ風の窯変釉は,1890年代にヨーロッパ各国,及びアメリカなどで盛んに模倣されることになる。さらにシャプレは,釉薬の化学的な研究を積み,トパーズ,ルビー,アメシスト,エメラルドのような宝石の色を,釉薬によって再現する試みを行い,ある程度の成功を収めていた。このように,中国陶磁の炎による色彩の魔術に魅せられたフランス十九世紀末の陶芸家たちは,釉の化学的な研究成果を積み,むしろ彼ら独特の色彩をもつ釉薬を完成させた。そしてその成果を土台にして,デンマークのロイヤル・コペンハーゲン窯では美しい結晶が釉の中に浮かぶ,あの「結品釉」を逐に開発させていくのである。さらにフランスのセーブル窯でも,1900年頃には見事な「結晶釉」が完成されている。(2) デンマークデンマークのロイヤル・コペンハーゲン窯が「釉下彩」や「結品釉」の研究に本格的に着手するのは,1880年代からである。アーノルド・クローという若干29歳の技師が,1885年からロイヤル・コペンハーゲン窯の美術部長に抜擢され,釉下彩磁器開発の推進者になるのである。クローの目指したものはそれまでヨーロッパ陶芸の装飾の主流であった上絵装飾,つまり釉薬の上に描かれる文様ではなく,むしろ陶磁器の地肌の美しさをいかに引き出すかという点にあった。金彩やいくつもの色絵具を使った文様で器面を塗り込める十八世紀以米のロココ調の上絵は,宝石のような質感や輝きをもつ磁器の地肌の本来の美しさを覆い隠してしまうものとクローは考え,上絵装飾に彼は否定的な立場をとったのである。バルトによる藍色ばかりではなく,クロームによる緑色,金による赤色なども釉下彩として表現できるものであった。ここで使われた釉薬は高濃度のアルカリを含む長石を成分とし,1400■1500度というきわめて高い温度で焼成するものである。この高火度の釉下彩では,低火度の釉下彩にはない,柔らかく霧につつまれたような涼しげな色調を出すことを可能にしたのである。1886年10月の窯で成功した「葦や小枝に霧が降りかかる中につがいのコウノトリを配した小壺」がクローの最初の釉下彩の磁器で1885, 6年にわたる研究によって,彼は釉下彩の技法を完成させている。それは,コ-126-
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