あった。このロイヤル・コペンハーゲン窯の釉下彩磁器は,1888年と1889年の二回の展覧会によって紹介され,すぐに世界的な名声を得ることになった。最初の1888年にコペンハーゲンで行われたスカンジナビアの産業博覧会では,特にいわゆるジャポニスムの意匠の作品が大変な評判を呼んだ。それは,広重の浮世絵版画をモチーフにしたカレイの干物の文様の壺〔図3〕などであった。そして次の1889年のパリで開催された万国博覧会では,ロイヤル・コペンハーゲン窯の作品はグランプリに輝いている。さて一方の「結品釉」については,コペンハーゲン窯の化学者であるアドルフ・クレメントが大いに貢献していた。1889年に亜鉛の珪酸塩を使って,小さなプラズマのように美しい結晶が浮き出る釉薬を開発している。さらに酸化ニッケルを亜鉛の珪酸塩の釉に混ぜると,ブルーの結晶が浮くパッションブルーの釉薬になることも明らかにした。そして1892年には,267個の結晶釉の作品を海外に輸出し,その内42個はパリに,23個はシカゴに運ばれたという。そして1893年のシカゴ万博では,ロイヤル・コペンハーゲン窯の「結晶釉」は大変な人気を呼ぶことになる。アメリカのティファニ一社もこの「結晶釉」の作品を大量に購入している。そして,このロイヤル・コペンハーゲン窯の「結晶釉」はヨーロッパ中で研究され,1900年のパリ万博の段階ではパリ,ウィーン,ベルリンなどでその写しがすでに製作されていたという。(3) アメリカアメリカにおいて1870年代頃から1930年代頃という時期の,装飾的にきわめて質の高い陶器は一般に「アメリカ芸術陶器」と呼称されている。この芸術陶器運動はシンシナティーのオハイオで開始されたが,それらの作品はすべて人間の手によって成形され,そして芸術的な装飾が施されたものという点から「芸術陶器」と呼ばれていた。また後の陶磁製作者たちは,釉下に泥漿で装飾する技法(いわゆる釉下彩),マット釉,結晶釉,型造り,彫刻技法など,新技術を交えて様々な装飾テクニックを使いこなしたやきものという意味で当時のやきものを「芸術陶器」と呼んでいる。そのようなアメリカの芸術陶器運動の中心的な役割を演じたのが,シンシナティーのロックウッド窯であった。このロックウッド窯に関しては,板谷波山は装飾法について多くのインスピレーションを受けていたが,実は波山ばかりでなく当時の日本陶芸界の多数も「理想の窯」としてロックウッド窯に熱い視線を向けていたのである。ロックウッド窯は1880年に,マリア・ログワース・ニコルスという一人の女性によっ-127-
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