は1896年に完成している。て設立された。1876年のフィラデルフィア万博で,フランスのリモージュにあるハヴィラント窯の明暗のコントラストの美しい「釉下彩」(エルネスト・シャプレが開発した釉下に泥漿で装飾したいわゆるバルボティーヌ技法)の作品に感銘し,そこから「釉下彩」に取り組むようになる。そして早くも1878年にはバルボティーヌ技法をマスターし,これはシンシナティ・ファイアンスと呼ばれるようになった。そして1883年には,色彩のグラデーションの表現を可能にさせるいわゆる「吹絵」技法が完成する。これは世界に先駆けてロックウッド窯が開発した彩色法である。この「吹絵」技法によって,あのロックウッド窯の作品の文様の背景を飾る色彩の見事なグラデーションが表されるようになったのである。板谷波山がロックウッド窯の装飾法で最も注目したのも,この「吹絵」技法による色彩のグラデーション効果であった。そして,つい一躍世界中からの注目を浴びるのである。また釉薬に光沢のない,いわゆるマット釉【日本での「釉下彩」と「結晶釉」の受容】十九世紀末に西洋で流行した「釉下彩」と「結晶釉」の技法を,国内で最初に受け止めたのは,実は板谷波山ではなく,さらにその上の世代であったことも今回の調査で明らかになった。それまで墨守してきた江戸期以米の伝統様式を変革し,積極的に西洋陶磁に学ぼうという姿勢を作陶家たちが鮮明に打ち出したのは,明治20年代末から30年代初頭の頃からであった。その意識改革の最大の理由は,彼らの美意識の変化というよりも,むしろ海外輸出の不振という経済的な要因が直接の因子となっているようである。その決定的な事件が,1900年のパリ万国博覧会での日本陶磁の予想を超える不振であった。その改革の中心になった人物は,陶芸家の加藤友太郎や宮川香山,そして東京職工学校(現東京工業大学)OBでドイツ人技師ワグネルの弟子である飛鳥井孝太郎,北村弥一郎,平野耕輔らである。彼らはいわゆる地方の伝統的な窯元たちではなく,新興の陶芸家や陶磁化学を専門にする研究者であった。明治29(1896)年に瀬戸の飛鳥井孝太郎が美濃恵那郡産の鉱石から,釉下で黄色になる顔料を発見した。また「結晶釉」では,北村弥一郎が明治30(1897)年石川県工業学校にて,日本人として初めてマンガンによる「結晶釉」を開発している。板谷波山はこの北村から大いに影響を受けていに1889年のパリ万博では「釉下彩」〔図4〕の作品で堂々のゴールドメダルを獲得し,-128-
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