鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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た。さらに加藤友太郎は,明治16(1883)年頃より早くも白象嵌,黄色,赤色の「釉下彩」顔料の研究に着手し,同26(1893)年には黄色の焼成に成功,そして同32(1899)年にはついに赤色の顔料の発見に成功している。また,加藤と同じように釉下彩を得意とし,横浜から西洋に多くの磁器を輸出していた真葛焼の宮川香山も,明治34(1901) 年頃までには「釉下彩」磁器を完成させている。さらに地方の輸出陶磁業者の中にも,「釉下彩」を積極的に取り入れている会社があった。それは,岐阜県多治見の西浦円治の製陶所,愛知県瀬戸の加藤紋右衛門の製陶所,佐賀県有田の香蘭杜などで,それらは明治30年代にはかなり完成度の高い「釉下彩」磁器を生んでいる。特に西浦製陶所は,明治33(1900)年にはすでにアメリカのボストンに支杜を設けるほどの発展をみせ,「釉下彩」磁器が特にアメリカにおいて大きな需要が見込まれていたことが窺われる。そしてこれらの先人の業績を土台にして,板谷波山が日本独特の装飾陶磁を明治末期に完成させたと理解することができよう。【おわりに】これまで日本の近代陶芸史において,明治期の陶芸の装飾意匠は,江戸時代以来の伝統様式一色に染まっていたと考えられがちであった。しかしながら1900年のパリ万博での輸出不振をきっかけに,明治後期の作陶家たちは西洋陶芸と初めて真摯に向かい合い,西洋で流行する新たなスタイルの受容により様式的な停滞を打破してゆこうとした。その試みが,加藤友太郎や宮川香山,さらに板谷波山らによって「釉下彩」と「結晶釉」を柱とする新様式へと結晶したのである。この新様式は,印象派の絵画あるいはロダンの彫刻と同じように,フランスが核となって生み出し,同時代の世界中の陶芸界を席巻するほどの影響力をもった陶芸の「世紀末様式」の分流と言えるものであった。いわば陶芸における「世紀末様式」と言うべき大きな波が,明治後期の日本の陶芸界をも確実に覆っていた点を,近代陶芸史上において見過ごしてはならなしヽと思われる。-129-

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