11)。従来この図像は,金印勅書のために成立したと考えられていたが,ロンドン・レ銘がある(注10)。アンドロニコス三世,四世がこのような図像を有する金印勅書を発行しなかった,とは必ずしも言えないか,二世にのみ2作例が現存し,かつ二世は積極的に芸術を支援したパトロン活動で知られることから,我々のロンドン写本もまた二世の手になったと考えて問題ないだろう。アンドロニコスニ世の金印勅書2作例は皇帝を,文書が与えられる教会の献堂聖者とともに描いている。この原則から類推すれば,ロンドン写本の奉納先かある程度限定されるだろう。挿絵は,中央に大きく十字架を描いていた。レクショナリーは聖十字架に捧げられた聖堂に寄進された可能性がある。しかしそれではキリストの特異なイコノグラフィーが説明されない。今一度Esztergomの聖遺物容器を思い出そう。聖遺物を納める十字架形のくは‘みの左下に「連行」の場面が描かれていた。レクショナリー挿絵の十字架と「連行」との組合せは,まさに聖遺物筐から採用されたものに違いない。皇帝を向かって左に描く慣例に従って,「連行」の場面は右に移され,兵士などの余分なモティーフは削除されて,説話性の希薄な,モニュメンタルな挿絵が完成する。従って写本は聖十字架に捧げられた教会に寄進されたと考えるよりも,十字架の聖遺物筐を擁する聖堂に与えられたとする方が,挿絵の特異性が十二分に説明される。現存する金印勅書のうち,最も早いのはアンドロニコスニ世の2作例である。それ以後の金印勅書,例えば1374年のアレクシオス三世のものや1429年のブランコヴィッチのものでも同様に,皇帝と寄進先聖堂(修道院)の献堂聖者が挿絵に描かれる(注クショナリーの発見によって,同じ構成が他ジャンル写本にも用いられることが明らかになった。このイコノグラフィーを写本に導入したのは,アンドロニコスニ世である可能性が強いだろう。挿絵の技法について付言する。ロンドン写本において,キリスト像は比較的保存がよいにもかかわらず,皇帝像はほぼ完全に剥落している。これは羊皮紙に金箔を貼って背景とする際,キリスト像の部分には箔を置かず,羊皮紙に直に顔料を塗る一方で,皇帝像は一面に箔を置いた上に描いている故である。箔には顔料がうまくのらずに,皇帝像がそっくり剥落する結果になった。先述1301年の金印勅書(アテネ,ビザンティン美術館)でも同じ技法が用いられている。-135-
元のページ ../index.html#146