美術館(注19)にヴェネツィア・ホテル組合が購入•寄贈した7点のうち,3点が昨号34),イタリア語では《仮面舞踏》(キャプション最後の,おそらく雲南(?)は,下柔らかな色調の絹製の額下を囲む光沢のある黒漆の縁である。その絹の色合いは,はとんど常にこれまた淡く,少ない色調で描かれた水彩画(本体)とうまく調和するように選ばれているのである(注18)。これらの「Gaku」の額縁は黒漆の簡素なものであり,日本で既に付けられていたことが分かる。ビエンナーレ運営委員会は,日本語目録のこの「額」という言葉とその形態にとらわれて,絹本絵画のみならず押絵も,刺繍もすべて「Gaku」という範疇に押し込めてしまったのである。そして,イタリア語目録が「Gaku(quadri)」,すなわち「額(絵)」と解説を加えたことが,日本では剌繍や押絵も絵画なのだという日本美術に対する概念の混乱を招くことになったのである。この現象が起こった論理的背景を論ずる前に,これらの作品が一体どんなものだったのかを見てみよう。第2回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品された日本美術協会員作品の写真資料は非常に少なく,当ビエンナーレを記念して設立の企画された近代年のビエンナーレ百年記念のカタログに掲載された程度であった。イタリアにおける日本美術の第一人者と考えられていた美術批評家ピーカの著した第2回ビエンナーレ批評の単行本にも図版は出ていなかった。しかし,今回当該ビエンナーレの批評賞選考委員会報告(注20)を参考に,ピーカ批評の初出の新聞・雑誌を調査した結果,『イタリアの生活(LaVita Italiana)』というローマの雑誌の第3巻18号(1897年9月1日発行)に9枚の図版を発見することができた。そのうちの3枚は今議論をしている押絵と染物の「Gaku」である(注21)。この割合は非常に高く,これらの作品が当時のイタリア人の興味を大いに引いたことを物語っている。図1は飯田新七の《天鵞絨友染富嶽圏壁掛》(イタリア語目録番号8)であるが,イタリア語の題名は《田子ノ浦の風景》と改められている。図2は田中利七作《押綸道成寺圏額》(イタリア語日録番絵作者の名であろう),図3は同人の《名古曾闘圏額》(イタリア語目録番号35),イタリア語では《古武者達》(Umgroは下絵作者であると記されている)である。最後の作品に関しては,特別に次のような解説がついていたことが知られている。平泉を治める強力な封建君主貞任の征伐に天皇から遣わされた将軍八幡太郎は,勿来関を越えるとき,今を盛りと咲く桜を見つけ,歩みを止めて,心を奪われた-4-
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