鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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ともども柱などを省略〔図6-2〕して転用したことで,あたかも露座仏のようになってしまったのであろう。⑤は④同様に『京童』挿絵にある堂内の描写の省略転用の結果である。⑥は本来仏像である国阿正人が,彩色のない墨摺りの版本挿絵描写内容の理解不十分から,あたかもそこに僧侶がいるかのような人肌に描いてしまったのであろう〔図5-2]。⑦これも『京童』では社頭で雷雨(雷神も描かれている。〔図10-2〕)に参詣人が逃げ惑うところが描かれたものの片手落ちの転用であろうか,ちなみに歴博E本は晴天である。また,左1下に見られる「ほうりんし(法輪寺)」〔図7-1〕もいささか問題を卒んだものである。京都で法輪寺は六寺ほどあるが,十七世紀で寺名が変更されていたり,小堂のみのもの,創建が十八世紀以降のものを除くと二寺となる。一つは「檀王法輪寺」という左京にある寺院。今一つは通称「嵯峨虚空蔵」と呼ばれる嵐山にある寺院である。通常洛中洛外などによく描かれるのは,後者であるが,この歴博E本では直上に「こくうそう」として堂子のみを描いてあり,同じ寺院が重複することとなる。もし,前者とすると位置的に左五扇あたりでないとおかしい。さらに,歴博E本で描かれているものは『京童』巻三の西方寺の挿絵〔図7-2〕を利用しているのである。当然短冊の誤記も考えられるが,西方寺とすれば,これも位置が不適当で北野天神の近くあたりが妥当な位置である。この「ほうりんし」の問題を含む洛中洛外の各地各図の位置は,絵画効果上やむを得ない範疇での移動もあろうが,歴博E本は,先の「醍醐」の問題など,その描かれた位置は大きく現実と異なり,絵画上の効果の範疇から逸脱しており理解に苦しむ。短冊部分で述べたのだが,絵画的にも京都の地理の知識のない絵師が関与したのではないかという想像ができる。多少でも知識があれば,このような位置には描かなかったのではないだろうか。以上の問題点は,屏風の存在が先行し,『京童』が後に刊行されたものと考えると,一つも解決せず,『京童』が存在し,それを何等かの形で利用したと考えることで,解決することである。これまでの検証で,歴博E本はかなりの部分において先行する版本である『京童』をさまぎまな形で粉本としたと確定してよいと思われる。しかし,まだこの歴博E本には,検討を要する諸問題が存在すると考えられる。以下,現時点において示せるものを記しておく。-147-

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