ように桜に見とれた。八幡太郎その人は,この主題に感興を得,後に有名になる歌を残したのである(注22)。日本美術部門は当初一般大衆には不評で,立ち止る人も少なかったが,批評家達には概ね評判が良かった(注23)。彼らは4月末のビエンナーレ開会後,ヨーロッパの国々の出展作品から批評を書き始めたので,日本美術についての評か新聞や雑誌に掲載されたのは,会期も半ばを過ぎた7月頃からであった。批評賞を競った批評家の中には全く日本美術に触れないものも何人かいた(例えば,批評賞第1位を獲得したプリモ・レーヴィや,チェーザレ・カステッリ,アントーニオ・デラ・ローヴェレなど)反面,第一人者ピーカを始め,日本美術に関するピーカやゴンスの著作を読んで知識を得ていたコルラード・リッチ,ウーゴ・オイエッティ,ェンリーコ・トヴェツなどもいた。後者の批評家達は,dipinti(描かれたもの=絵画)とricami(刺繍)という言葉を用い,イタリア語目録の「Gaku」という分類には従っていない。これに対し,予備知識もなく『図説カタログ』とイタリア語目録を片手に会場を回ったと考えられる批評家達,例えば先に引いたチェーザレ・スペラツやジョー・アントーニオ・ムナーロには,描かれた絵も刺繍も「Gaku」という絵画の範疇に入るのだという混乱が見られる。スペラツは,まず第一に,真の絵画であるgakuを見てみよう。これらはあの幸福な国の富ともいえるあの素晴らしい絹の上に制作された水彩か,刺繍である(注24)。と述べている。この混乱は,先程述べたイタリア語目録における概念の混乱から引き起こされた当然の帰結であるが,そこには『図説カタログ』の記述も関わっていると考えられる。ビエンナーレ運営委員会では開会時に『図説カタログ』(注25)を用意した。そこには出品作品と作者の略歴が紹介され,作品によっては巻末に図版も掲載された。しかし,日本美術協会の出展作品に限っては,その会場への搬入が4月13日(注26)と遅かったため,作品到着後,前述のように長沼の持ってきた日本語目録を基に別冊のイタリア語目録が編纂されたのであった。『図説カタログ』には,日本美術全般とゼーゲア・コレクション,日本美術協会について9頁にわたって解説がなされている。その著者は不明であるが,参考文献として,ゴンスの『日本美術(L'artjaponais)」とピ-5-
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