歴博E本の検討に際し『京童』以外に屏風と付き合わせた版本は,『案内者』(寛文二(1662)年)・『京雀』(寛文五(1665)年)・『京童跡追』(寛文七(1667)年)・『山城四季物語』(延宝二(1674)年)・『出来斎京土産』(延宝五(1677)年)・『京雀跡追』(延宝六(1678)年)・『京羽二重』(貞享二(1685)年)・『都すゞめ案内者』(宝永5(1708)年)・『諸国年中行事』(享保二(1717)年)・『京町鑑』(宝暦十二(1762)年)で,いずれも『京童』を魁とし,その後刊行された京都の地誌とその関連の刊行物である。現在のところこれらの本から,歴博E本が図を使用したとみられるものはないようである。ただ,歴博E本の町屋描写は,横に連続する家屋を右隻は左正面から斜に,左隻は右正面から斜に,見事に理にかなった構図をみせている。これは,他の建造物などが,前述のとおり規則性のない向きに描かれたことに対し,整然としたまとまりとして,印象深い。描かれた状態は,『京雀』などの挿絵に酷似しているものの,『京童』の挿絵のような結びつきはなかった。ただ,同様の町屋の描写は他の多くの洛中洛外図にもみられ,可能性として先行屏風の描写を利用したことも充分考えられる。この件に関しても今後調査を継続することとし,現段階では可能性を示すに止めておく。歴博E本の制作年と評価(まとめにかえて)今まで述べてきたことから歴博E本の制作年について,明らかに上限は『京童」の刊行年である明暦四年(1658)を遡ることはないと断言できよう。洛中洛外図の年代推定の鍵となる建造物などの変化も,歴博E本では『京童』の情報以上のものはみられず,今のところ下限は明確には示せないが,洛中洛外図の需要などから考えて仮に十八世紀に至るとも,それを大きく下るものでもないと思われる。時代を推定しうる傍証資料を得られない状況では,いささか絞り切れないが,十七世紀後半から十八世紀の早い時期というところが,現在示せる歴博E本の制作年代であろう。さまざまな興味深い事象を包含する歴博E本は,主要各図および群衆描写や各所に散見される人物図の多くが『京童』を粉本とすることがこれまでの検証により判明した。歴博E本の『京童』の利用の仕方は,『京童』が存在しなかったら,この屏風が作れなかったと思えるほど内容的に依存している。最初の京都の地誌である『京童』は,京都各所の情報を読者に与え,楽しませるという本来の出版目的を超えて,洛中洛外図屏風の粉本としても適材となったのである。古くから,版本など刊行物の挿絵を粉本として絵画を描くことは多く行われ,現在もその例を多くみることができるが,そ--149-
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