鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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(6) 滋賀・西教寺像かつて本像があった泉涌寺は,十二年間の入宋を経て建暦元年(1211)に帰国した俊窃が開いた寺である。同寺には,彼が宋で身につけた浄土思想を具現する仏堂として十六観院が営まれた。十六観院は中央の弥陀宝殿と十六の禅室からなり,後者においては宋の作法にもとづいて厳しい修行(修織と坐禅)がおこなわれたが,そこにはー室ごとに三尺の阿弥陀立像が安置された。それは東博像のようなスタイルのものであったと推測される。なお金子氏は本像の制作期について,泉涌寺が開かれた十三世紀前半とみておられるようである。西教寺山内の老人ホーム真盛園内の仏堂にまつられる。像高98.0cm。かつては西教寺の学寮(現存せず)に安置されていたというが,造像当初の安置場所については不明。金泥塗に裁金文様をほどこす。玉眼嵌入。頭・体を通して,像の幹部は檜一材から彫成し,前後に割り矧ぎ,さらに割首とする。肉髯は低平で地髪との境目は不明瞭である。螺髪が額にかぶさるように目深に表され,かつ髪際線は額中央で下方に少したわむ。ややおも長で頬の引き締まった男性的な風貌をみせる。近い作風をしめす像として,貞永元年(1232)の書写奥書を有する法華経を納入していた愛知・宝勝院阿弥陀如来像や延応二年(1240)慶俊作の三重・専修寺阿弥陀如来像があげられよう。いずれも慶派のなかでも快慶より運慶の系譜に近いと考えられている作例である(注9)。本像もこの系統の作家によって,宝勝院像造立の貞永元年頃を上限とする十三世紀半ば頃に制作されたものと考えたい。僧祇支をつけ,右肩をおおう偏杉および左肩をおおう袈裟をつける。袈裟は右肩に少しかかる。裳をつけ,正面中央で左を外にして合わせる。左手は屈腎して胸前で仰掌し,第一・三指を相捻じ他指を伸ばしており,右手は掌を前に向けて垂下し,全指を伸ばす。ただし左手の全指先と右手の第三・五指先は後補である。しかし当初材の角度からみて,右手は現状どおり,左手は第一・三指を相捻じ,第ニ・五指を伸ばしていたものとみられる。第四指のみよくわからないが,第-164-

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