文殊菩薩坐像などが想起される。前者は像内納入品の墨書から文永六年(1269)に法橋幸舜によって制作されたことが判明し,作者幸舜について詳しいことはわからないものの,いわゆる善派の作風に近いことが指摘されている(注10)。極楽寺像は文永十のあるように(注12),やはりこの派の仏師の作とみて作風上矛盾しないだろう。さらにいえば,やはり善派系の作家のひとりと推測されている(注13)法橋円覚が文永三年(1266)に造った鎌倉・寿徳寺阿弥陀如来坐像の面貌も上記諸像および唐招提寺像に近く,唐招提寺像も善派周辺の仏師の作とみるのが穏当であろう。制作期は十三世紀後半もあまりくだらない頃(第三四半期か)とみられる。(8) 京都・悲田院像(その2)悲田院に所蔵されるもう一艦の逆手来迎印阿弥陀像。内仏としてまつられるが,当初より悲田院にあったのではなく,兵庫県三田を領した九鬼家から三田市内の金心寺に寄進され,これが近年に当院に移されたという。像底に「沙門婦佛/比丘尼浄覚」の墨書があるが,この両人については不詳である。像高33.0cmの小像で,檜材の一木割矧造かと思われ,肉身は金泥塗,着衣は彩色のうえに載金文様をほどこす。玉眼嵌入。僧祇支と偏杉をまとい,袈裟は偏祖右肩で右肩に少しかける。裳は正面中央で左を外にして合わせる。左手は屈臀して仰掌,右手は垂下するか,現在の両手首先は後補。一見してわかるように,先の東京国立博物館像など,形式面のみならず作風のうえでも濃厚に宋風を漂わせる像に近く,おそらくは東博像ないしそれに類する像をモデルとしたものであろう。両足首以下を長靴状に別材で造り,像底から差し込む点,両足踵裏に別材製の丸柄(後補)を差し込む仕様も東博像に通ずるもので,この推測を補強する。しかし各処に類型化が著しく,時代の下降はうたがえない。室町時代の作とみる意見(注14)にしたがいたい。とはいえこの像の存在により,東博像が孤高の存在ではなく,たとえ限られた地域ないし宗派においてであっても,その造像の伝統が継続したことを推測できる点は貴重である。年(1273)に落慶供養された同寺多宝塔に安置されたと考えられ(注11)'すでに指摘-166-
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