注(1) 針生一郎「ヴェネチア・ビエンナーレを通してみる日本の美術…1952-68年」『ヴScotton, "Arti applicate: dalla fondazione al Padiglione Venezia" in Venezia e la Biennale, I percorsi del gusto, Venezia 1995, p.123にも応用美術として日がMarioPilo, "La seconda esposizione internazionale d'arte", in Gazzetta letteraria 1897年9月4日がその概要を伝える。(この新聞記事の一部は,ヴェネを説得し,奇怪で滑稽な作品が私を陽気にさせ,その結果エルネスト・ゼーゲア(中略)のコレクションと日本美術協会(少しは日本風にやらせてください)は,本当に万国(美術博覧会)において名誉ある位置を占めるに価すると確信するに至ったのである(注32)。イタリア語の目録作成がどのような過程で行われたかを知ることは,現在のところ不可能である。その目録作成には長沼も当然関わっているから,ビエンナーレ運営委員会の単独編纂に与らないことは明らかである。しかし,その過程で絵画と刺繍などを纏めた「Gaku」という新しい分類が生まれ,それが当ビエンナーレのみで,その後に受け継がれなかったことは現象として特箪に価すると思われる。その分類を観賞者達が素直に受け入れたことの背景に,純正美術と応用美術の区別がないことを強調したそれまでのヨーロッパにおける日本美術批評の流れがあることは,否定できないであろう。イタリアで初めて日本美術が紹介された第2回ヴェネツィア・ビエンナーレの意義は,ここにも認められるのである。ェネチア・ビエンナーレ…日本参加の40年」東京1995年,16頁で初めて触れられた。また同時に刊行されたイタリア語の展覧会カタログ収録の論文Flavia本美術に関する記述が見られる。但し,スコットン女史自身は日本美術を応用美術とは考えていないという。(2) 日本美術協会の作品「事務取扱」(協会の嘱託状の文言)を一任され,ヴェネツィアに派遣された彫刻家長沼守敬は,帰朝後1898年1月28日から31日にかけて読売新聞に発表した記事でartepura(純粋な美術)を「純正美術」と言っているのでそれを踏襲する。(3) その大半は焼き物や置物,根付などであったらしい。カタログは作られなかった-7-
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